2025年4月、私は京都市京セラ美術館を訪れました。岡崎エリアと呼ばれるこの場所は、かつて明治天皇の東京遷都に対抗する形で、文化芸術の中核地として生まれ変わった、いわば近代京都の象徴のひとつ。平安神宮のすぐそばにあるこの美術館で、草間彌生さんの展覧会「草間彌生 版画の世界—反復と増殖—」が開催されています。

そんな地域にそびえ立つひと際目をひく美術館。昭和初期の「近代和風建築」の建物にまず眼を惹かれます。1933年「大礼記念京都美術館」として開館し、2020年の大規模リニューアルを経て、現代と歴史が融合する美術館として生まれ変わりました。昭和天皇の即位を記念して建設されました。設計は前田健二郎によるもので、帝冠様式と呼ばれる建築様式を採用しています。この様式は、洋風の構造に日本の伝統的な屋根を組み合わせたもので、和洋折衷の美しさが特徴です。本館は現存する日本の公立美術館建築の中で最も古く、その歴史的価値は高く評価されています。

なぜ版画なのか——限られた体力でも続けられる表現

おんとし96歳。いまもなお現役で創作を続ける草間さんのエネルギーに、私は圧倒されるばかりでした。
1929年、長野県松本市に生まれた草間彌生さん。幼いころから精神的な不安定さを抱え、周囲の理解が得られない中で絵を描き続けてきました。1950年代には単身で渡米し、60年代には「前衛の女王」と称されるまでに。
草間彌生さんの作品といえば、大きなキャンバスや立体作品、そして圧倒的なインスタレーションを思い浮かべる方も多いかもしれません。でも実は、彼女にとって「版画」という表現手段もとても大切な場所だったんです。
草間さんが本格的に版画に取り組みはじめたのは1970年代後半から。精神的な疲労からニューヨークでの活動を終え、帰国したあとでした。アトリエで大きなインスタレーションを制作することが難しい環境の中で、彼女は“限られた空間や体力の中でも、イメージを表現し続ける方法”として、版画に向き合うようになります。草間さんの作品は信頼された版元で刷られています。本展の解説では、そんな版元の苦悩も教えていただきました

江戸時代から伝統木版技術を継承するアダチ版画研究所から、絵師としての依頼で描かれた本作。アダチ版画研究所は、浮世絵の制作技術だけでなく、積極的に現代作家に声かけをしていたのです。今回白羽の矢が当たった草間さんは、早速富士山を間近で観察し、それをスケッチに書き起こし、そこから本作の制作にあたったそうです。
s120号のパネル3枚を繋いだ巨大な作品。途方もない大きさの作品で目が回りそうですが、草間さんはこれをなんと30分ほどで富士山と太陽を描いてしまいました。
しかしアダチ版画研究所がその大きさをとても刷れる環境ではなく、今回の版画事業は苦戦したようです。展示の下部には、木版画で様々なカラーバリエーションに変貌した富士山の作品が並んでいました。
展示の見どころ——前期・後期で作品全入れ替え!

今回の展覧会では、前後期で展示作品がすべて入れ替わるというユニークな構成。全体で約330点の作品が紹介されるなか、私が訪れた前期では160点ほどが展示されていました。
全6章に分かれた展示構成。第1章「わたしのお気に入り」では、可愛らしいモチーフに草間ワールドが存分に展開されていました。
1957年、単身アメリカに渡米。そこで網目や水玉といった草間さんオリジナルの表現を獲得しました。16年間の異国での活動は、ソフトスカルプチャやパフォーマンスアートなども発表し、彼女を世界的アーティストに押し上げています。

1973年に帰国。体調や心の不調を感じ、この時期の作品には苦しい胸の内を反映させるようでう。一見ポップな作品にも、死を連想させるようなものも多く存在します。草間さんが版画制作を本格的に行なったのは丁度この頃でした。
ラメのきらめきに込められた“心の風景”

特に印象に残ったのは、「ラメシリーズ」と呼ばれる作品群です。草間さんがNYへ向かう飛行機の中で見た、太平洋のきらめきがきっかけとなって生まれた作品で、表面にラメ加工が施されています。静止した状態では気づかないそのきらめきも、角度を変えて歩きながら見ると、まるで内面の衝撃や希望が輝いているかのよう。
作品というより、まさに“心の風景”そのものでした。
なぜ水玉なのか——虫眼鏡のようなまなざし

草間作品を見るたびに私が感じるのは、「かわいい!」という気持ちと同時に、心が締めつけられるような何かです。その理由を考えると、彼女の「視点の近さ」があるように思います。
たとえばかぼちゃの作品。凡人のわたしが普通にカボチャを描こうとすると、まず全体の形を把握してから描きはじめてしまいます。そう教わったし、それが染み付いていますから。

しかし、草間さんが大事にしてることが全然違うように感じるんです。全体を把握して絵として完成させることより、もっとフォーカスしたところに魅力を感じているような。カボチャの突起や斑点の一部だけを見て、それを隣へ、また隣へと描き進めていく——まるでバナナの房のように小さな単位で見つめている。そんな目線が、作品全体に独特のゆがみと、強いリアリティを与えているように感じました。
そういった表現は、絵を学んだ者から言ってしまうと、天才しか許されない手法だと思っています。羨ましくもあり、絶対に真似できない目線だと思うわけです。
エネルギーの源

負のイメージを内包しつつも、それに溺れない強い力を感じる作品ばかりです。そのようなパワーは一体どこから発せられるのでしょうか。
第6章にあたる一際くらい展示空間には、そんなパワーを象徴する草間さんの現在の創作活動の風景映像や、背中を押されるような詩、そして大きな作品群が出迎えてくれました。
すべての人々に愛はとこしえ(永久)と叫びつづけてきたわたし
そしていつも生きることに悩みつづけ
芸術の求道の旗をふりつづけてきた
(中略)
そしてもっともっと愛を世に叫び刻印を残したい。
世界の争いや戦争やテロや貧富の泥沼をのりこえることを
心から願って止まない。

時々心が締め付けられると前述しましたが、草間さんはわたしが想像もできないほどの壮絶な人生を歩んでいます。もし自分だったらとっくに心が折れていたことでしょう。旧家の出身ですが母親に理解されず、1人知らぬ国へ行き活躍。1950年代のアメリカで東洋人女性が単独で乗り込んで一体何ができるというのだろう。
しかしそんな悲観的に感じているわたしなど知らぬように、作品は全く弱さを見せず、そこにドンと構えています。そんな姿勢に、涙とも違う感動を覚えています。
おわりに
草間彌生さんの作品は、一見ポップでキュートな印象を与える一方で、その奥には深い孤独や闘いが込められています。彼女の「反復」と「増殖」という表現が、どれほどの思いから生まれたのか——それを体感できる素晴らしい展覧会でした。
ぜひ、彼女のまなざしとエネルギーを、現地で感じてみてください。

松本市美術館所蔵
草間彌生 版画の世界―反復と増殖―
2025年4月25日-2025年9月7日
会場[ 新館 東山キューブ ]