現代美術の金と鉛 ― 二条城の記憶と共鳴して【アンゼルム・キーファ】

展覧会レポート

2025年春、京都の世界遺産・二条城にて、ドイツ現代美術の巨匠アンゼルム・キーファの個展が開催されています。舞台となるのは、通常は非公開の「二の丸御殿 台所・御清所」およびその周辺の庭園。かつて将軍が政治の表舞台として使ったこの場所で、いま現代アートが静かに語りかけてきます。

二条城は、1603年に徳川家康によって築かれ、江戸幕府の始まりを象徴する場所として知られています。将軍の京都滞在時の宿所であると同時に、天皇と幕府の対面や、政治の重要な儀式の場としても機能しました。そして1867年には、十五代将軍・徳川慶喜によって「大政奉還」が表明され、幕末から明治へと時代が大きく動いたその瞬間を見届けた場所でもあります。

その歴史を振り返れば、二条城は日本の近世と近代を分かつ「境界」であり、権力構造や社会秩序の変化を内包した“記憶の装置”ともいえる存在です。美しい障壁画や庭園の奥に、静かに横たわる“時代の転換点”としての重みは、訪れる者に何かを問いかけてきます。

二条城二の丸御殿


そんな場所で開催されるアンゼルム・キーファ展は、単なる「展示」ではなく、過去と現在が交差する一種の“対話”の場となっています。戦争・神話・記憶といったテーマを通して、二条城そのものの歴史とも見えない対話を始めているかのようです。

エジプトの太陽神「ラー」
ラー(Ra, 2019) 鉛、スチール、サイズ940×950cm

まず出迎えてくれたのは、見上げるほど巨大な作品《Ra》。堂々とたちはだかる巨大な彫刻作品。見上げなければ全体像が把握できないほどのスケールで、神話の断片となって立ち上がってくるような迫力です。

使われているのは、鉛とスチールという冷たく無骨な素材。それでいて、そこに宿る造形にはどこか神聖な気配が漂います。無数の板が重なり合い、ざらついた質感の中に、蛇のような形や翼を思わせるモチーフが浮かび上がってくる。おそらくこれは、エジプト神話に登場する太陽神ラーの象徴たちでしょう。

ラーは、太陽そのものであり、光と生命の源として崇められた存在です。毎日、太陽の船に乗って天を旅し、夜には冥界を通って翌朝ふたたび昇ってくる。この作品では、その“再生の旅”の神話が、鉛という「時間」や「記憶」を内包した素材によって語られているかのようです。

荒々しい素材と崇高な神格の組み合わせ――それは、キーファらしい神話の解体と再構築の試み。輝かしい神のイメージを、光ではなく「重み」で語るこの表現に、彼の一貫した問いかけ――「歴史や神話を、私たちはどう受け継ぐのか」――が込められているように感じられました。

アンゼルム・キーファとは?

アンゼルム・キーファは、1945年ドイツ生まれの現代美術家です。第二次世界大戦の終戦直後に生まれた彼の作品には、戦争の記憶歴史の闇神話や詩との対話といった重厚なテーマが通底しています。

絵画から彫刻、巨大なインスタレーションに至るまで、彼の作品にはいつも「物質」が深く関わっています。鉛、灰、藁、鉄、砂、そして金箔――これらの素材は単なる視覚的効果のためではなく、それぞれが記憶や重み、浄化や再生の象徴として選ばれています。

ときに作品には、古代神話や聖書の引用、ユダヤ神秘思想、科学理論、詩人の言葉などが組み込まれており、見る者に「これは何を語っているのか?」と問いを投げかけてきます。しかしそれは決して知識の押しつけではなく、見る人それぞれが自分の記憶や感情と向き合うための装置として、静かにそこに存在しているのです。

世界各国で高く評価され、ルーヴル美術館やヴェネチア・ビエンナーレでも作品が展示されてきたキーファですが、今回のように歴史的建築との共鳴をテーマにした展示は非常に注目に値します。

「歴史を素材にして、未来の想像力を刺激する」――そんな稀有な作家が、いま二条城という日本の“記憶の場”で語ろうとしていること。それは決して他人事ではなく、私たちの足元にある時間にもつながっているのかもしれません。

詩人に捧げられた、岩のような絵画 ― 《オクタビオ・パスのために》
《オクタビオ・パスのために》For Octavio Paz 2024 キャンバスに乳剤、油彩、アクリル絵具、シェラック・ニス、金箔、電気分解による沈殿物、岩石、チャコール、コラージュ 380 × 950cm

屋外展示の《Ra》を後にして、建物の中へと足を踏み入れると、ふたたび圧倒されるような大作が視界に広がります。それが、《オクタビオ・パスのために(Für Octavio Paz)》という作品。幅9メートル以上の巨大なキャンバス作品で、見る者をまるごと包み込むように立ちはだかっていました。

表面は、まるで風雨にさらされた岩壁のようなごつごつとした質感。近づけば近づくほど、絵の中に物質が埋め込まれているのが分かります。乳剤、油彩、アクリル絵具に加えて、金箔、岩石、チャコール、さらには電気分解による沈殿物やコラージュといった、非常に多様な素材が層を成して使われているのです。

作品のタイトルにある「オクタビオ・パス」は、メキシコの詩人であり、ノーベル文学賞を受賞した思想家でもあります。彼は東洋と西洋の文化、神秘思想と現代詩をつなぐような独自の詩世界を築いた人物であり、キーファにとっては詩と哲学を結ぶ存在として、深い敬意を抱いていたようです。

この作品には、そんな詩人に捧げるにふさわしい、言葉を超えた詩情が宿っていると感じました。物質の重さがここでは“詩の重さ”に変わり、見る者は文字ではなく、質感と沈黙の中にこそ意味を探すことになります。そして、岩のように荒々しくも崇高なこの画面が、キーファにとっての“詩とは何か”という問いそのものを体現しているようにも思えました。

《オクタビオ・パスのために》(2024)横から見た写真
眠りの中に語られる未来 ― 《ヨセフの夢》(2013)

室内には砂を敷き詰めた一室があり、展示会場を一層特別な空間にさせていました。《モーゲンソー計画》と題された作品はは、砂の上に麦畑のような空間が広がっています。穂先は金色に装飾されていました。

《モーゲンソー計画》Morgenthau Plan 2025 スチール、砂、綿、石膏、布、粘土、アクリル絵具、シェラック、金箔、テラコッタ、石、鉛サイズ可変
《モーゲンソー計画》Morgenthau Plan 2025 スチール、砂、綿、石膏、布、粘土、アクリル絵具、シェラック、金箔、テラコッタ、石、鉛サイズ可変

この作品は、第二次世界大戦終結後、連合国側がドイツを非軍事化・農業国家化しようと構想した「モーゲンソー案」に着想を得ています。キーファはこの計画を、歴史の中に押し込められた“別の可能性”として掘り起こし、物質で可視化したのです。スチールや鉛、テラコッタ、砂、粘土、金箔、さらには石や布まで用いられたこの作品は、ひとつの巨大な“風景”として立ち現れます。

ただしそれは、自然の風景ではなく、歴史によってかき乱された土地の記憶そのもの。廃墟のようでもあり、再生の前触れのようでもある――その曖昧な状態が、キーファの作品らしい二重性を孕んでいます。

「歴史の転換点で、もし別の道を選んでいたら?」

この作品は、そんな仮定すら含んだもうひとつの現実を、私たちの前にそっと差し出しているように思えました。

《ヨセフの夢》Joseph’s Dream 2013 キャンバスに写真、乳剤、油彩、アクリル絵具、シェラック・ニス、電気分解による沈殿物、チョーク 280 × 470cm

それと同居するのはまたもや巨大な油絵作品です。《ヨセフの夢(Josephs Traum)》は、旧約聖書の「創世記」に登場する預言者ヨセフの夢のエピソードをもとにした作品です。

兄たちに売られ、異国の牢に繋がれたヨセフが、やがて夢を読み解く力によって王に仕えることになるという、運命と再生の物語。キーファはこの神話的な物語を、写真、乳剤、油彩、電気分解による沈殿物など、複雑な素材のレイヤーで構成し、夢の中の曖昧さと、そこに込められたメッセージの重さを表現しています。

画面は抽象的でありながら、どこか風景のようにも見え、「夢の地層」を眺めているような感覚に陥ります。

私たちがふだん無意識に押し込めている記憶や願い――そういった“見えないもの”を、あえて重く、ざらついた物質で描くことで、キーファはそれを「現実に引き戻す力」として差し出しているように感じました。

闇の中に差し込む、理解されぬ光
《ヨハネ:光は闇の中に輝いている。闇は光を理解しなかった。》John: The Light Shineth in Darkness, and theDarkness Comprehended It Not 2016

展示場にはガラスケースに飾られた作品もいくつか見られました。この作品のタイトルは、新約聖書「ヨハネの福音書」第一章の冒頭から取られたものです。

“Et lux in tenebris lucet et tenebrae eam non comprehenderunt.”
「光は闇の中に輝いている。だが、闇は光を理解しなかった。」

この一節は、キリスト教においては神の啓示や真理の象徴である“光”が、世界(=闇)に拒まれたという深いメッセージを含んでいます。キーファの《ヨハネ》は、まさにこの象徴性を引き受けながら、現代の文脈に置き換えて私たちに問いかけてきます。

展示されていた作品は複数(2016年、2017年)あり、いずれもスチール、ガラス、鉛、灰、銅、紙、インク、電球など多様な素材で構成されていました。これらはただの視覚的素材ではなく、「歴史の傷」「語られなかった記憶」「見えていたのに見なかったもの」の象徴として扱われているようです。

黒くくすんだガラス、鉛の鈍い光、散らばった灰と、淡く光る電球。一見、廃墟のようにも見えるその構成の中で、ふっと灯る光は、まさに“闇の中の理解されぬ希望”のようでした。

「私たちは、いまどんな“光”を拒んでいるのか?」

「どれだけの“闇”を見ないふりをして生きているのか?」

この作品には、宗教的な意味合いを越えて、人間の知覚と倫理、そして時代の選択に関する根源的な問いが込められているように思えました。“光”は神でも真理でも希望でもいい。けれど、それはただ輝くだけではなく、それを理解しようとするまなざしを必要としているのだ――と、静かに伝えてくるのです。

光か、それとも記憶の痕跡か ― キーファが色に託すもの
《谷間に眠る男》部分 金の絵の具が混ざっている

アンゼルム・キーファの作品において、金箔や金色の絵具はたびたび使われる重要な要素です。彼にとっての金は、精神性、神聖性、そして失われた希望の残響を象徴しているように感じられます。

彼自身が影響を受けたと語る、日本の金碧障壁画(きんぺきしょうへきが)の技法や、ヨーロッパ中世の宗教画に見られる聖なる光の表現。そうした歴史の中で「金」は、神が宿る空間、あるいは永遠の象徴とされてきました。

しかしキーファの使う金は、けっして明るく祝祭的ではなく、ざらついた絵肌や重たい鉛の上に薄く貼られている。まるで、過去の中にわずかに残された“救済”や“真理”のかけらのように、かすかに光っているのです。

一方で、作品中にふと現れる緑色にも注目が集まります。

それは明るい草原のような緑ではなく、酸化した銅や金属のような“錆びた緑”が多く、生命力というよりも、時間の痕跡や腐食のイメージが強く漂っています。金と緑。ひとつは光、ひとつは腐食。

一見対照的なこの2色は、キーファの作品の中ではしばしば同居し、「崇高さと衰退」「神話と現実」「再生と崩壊」という両極の意味を同時に語り始めます。彼にとって、金は過去から差し込むかすかな光であり、緑はその光が長く留まったことによる変化なのかもしれません。作品の中にあらわれるこれらの色彩に気づくと、無機質だったはずの画面が、急に物語を持ちはじめます。

終わりに ― 記憶と時間の中を歩く

アンゼルム・キーファの作品は、決して明るく快活なものではありません。

重く、ざらつき、時に廃墟のように崩れかけた風景の中で、それでもなお人が何かを信じ、語り継ごうとする意思が、静かに息づいています。今回の展示は、ただ「作品を見る」体験ではなく、歴史に触れ、時間の堆積を感じる空間に立ち会うものでした。そしてその舞台が、かつて政治の節目を刻んだ二条城だったことは、偶然ではないように思います。

記憶は物質に刻まれ、物質は沈黙の中で語りはじめる。キーファの作品は、そんな循環を私たちにそっと差し出し、「あなたは何を受け取り、何を次の時代へ手渡していくのか」と問いかけてきます。

光は、闇の中に輝いている。その光を、見逃さずにいたいと思いました。

「アンゼルム・キーファー:ソラリス」
京都 二条城
2025年3月31日(月)〜2025年6月22日(日)
一般 2200円、京都市民割・大学生 1500円、高校生 1000円、中学生以下 無料

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