絶望の淵で、私たちは「宴会」を開く
真っ暗闇の中で、鼓膜を揺さぶる轟音が響いている。それは、怪物の咆哮ではない。雷鳴でもない。
「ワッハッハ!!」という、何千もの神々の爆笑だ。想像してみてほしい。太陽が消え、世界は永遠の闇に包まれた。作物は枯れ果て、悪霊が湧き出し、疫病が蔓延する。まさに「この世の終わり」だ。
ハリウッド映画なら、ここで選ばれし英雄が剣を取り、最後の決戦に挑む場面だろう。しかし、私たちの神話のクライマックスで描かれるのは、戦いではない。
宴会だ。
絶望の淵で、彼らは酒樽を開け、裸踊りをし、腹を抱えて笑い転げている。正気ではない。不謹慎にも程がある。しかし、この「狂気じみた陽気さ」こそが、最終的に太陽(アマテラス)を岩戸から引きずり出し、世界を救うことになるのだ。

なぜ、私たちは剣を抜かずに酒を飲むのか?
なぜ、白黒つける正義よりも、なんとなく場が丸く収まる「曖昧さ」に安らぎを感じてしまうのか?その答えは、遠い昔の教科書の中にはない。私たちの血管の中に流れる「ある正体」を知れば、その謎はすべて氷解する。
これは、剣よりも強く、太陽すらも動かしてしまう、ご先祖様から受け継いだ「最強の知恵」の記録なのだ。
死刑にならなかった暴君

天井に穴が開き、ボトボトと何かが落ちてくる。それは雨ではない。皮を逆剥ぎにされた、血まみれの馬だ。
スサノオが天界(高天原)で行った乱暴狼藉は、今の私たちの感覚で見ても、いや、当時の神々の感覚で見ても、正気の沙汰ではない。神聖な衣服を織る機織り小屋に、皮を剥いだ馬を投げ込む。驚いた織り女は、持っていた道具(梭)で陰部を突いて死んでしまう。さらに彼は、神聖な神殿に糞を撒き散らした。
やっていることは、単なる反抗ではない。死と排泄物によるテロリズムだ。神道が最も忌み嫌う「穢れ」そのものを、物理的にぶちまけたのだ。
ギリシャ神話のゼウスなら、即座に雷で焼き尽くしていただろう。旧約聖書の神なら、都市ごと滅ぼしていたかもしれない。

これほどの冒涜に対し、八百万の神々が下した判決は何か。
「髭を切り、手足の爪を抜き、追放する」
……それだけ?
死刑ではないのだ。身体の一部(毛や爪)を切り取るという、どこか呪術的な、あるいは形式的な「償い」だけで、彼は生きて地上へ放たれる。ここに、私が感じる強烈な違和感と、同時に奇妙な「納得」がある。
なぜ彼は殺されなかったのか。
神々は、スサノオを「悪人」として裁いていないからだ。彼らはスサノオを「災害」として処理したのではないか。台風に向かって「死刑だ!」と叫ぶ人間はいない。通り過ぎるのを待ち、壊れた屋根を直すだけだ。

スサノオの暴虐があまりに理不尽で、あまりに破壊的だったからこそ、神々はそこに「意志ある悪意」ではなく、制御不能な「自然現象」を見た。爪を抜くという行為は、刑罰というよりは、暴風の勢いを削ぐための「厄落とし」の儀式に近い手触りを感じる。
私たちはこの「スサノオ的なるもの」を、心のどこかで許容している。
クラスに一人はいる、手がつけられないけれど、なぜか憎めない乱暴者。あるいは、理不尽な上司や、突発的なトラブル。それらを「完全な悪」として切り捨てず、「まあ、そういう時期もある(そういう奴だ)」と、苦笑いで受け流す作法。日本神話の底に流れているのは、善悪の審判ではない。
嵐はいつか止み、そのあとには必ず「浄化」された世界が来るという、自然サイクルへの諦念と信頼だ。だからスサノオは死なない。彼はただ、次の場所(地上)へと「移動」していくだけなのだ。
引きこもりを救うのは「説教」ではなく「宴会」

「ドッカン、ドッカン!」
雷ではない。地鳴りでもない。岩の向こうから聞こえてくるのは、爆笑だ。真っ暗闇の岩屋(天岩戸)の中で、天照大御神(アマテラス)は耳を疑ったはずだ。
「私がいないせいで、世界は闇に包まれているはず。作物は枯れ、悪霊が湧き出し、みんな絶望して泣いているはずなのに」
なぜ、外はこんなに楽しそうなの?

状況を整理しよう。太陽神が引きこもったことで、世界は完全なる「死」の淵にあった。
ギリシャ神話なら、ここで英雄ヘラクレスが登場し、岩を怪力で粉砕して連れ出すだろう。あるいは、全知全能の神が「光あれ」と命じて強制執行するかもしれない。
しかし、日本の神々が選んだ起死回生の策は、「宴会」だった。
「おい、酒だ! 踊れ! 脱げ!」知恵の神・オモイカネが立案した作戦は、あまりにふざけている。

この絶望的状況で、彼らは岩戸の前に酒樽を並べ、榊(さかき)に鏡と勾玉を飾り付け、ドンチャン騒ぎを始めたのだ。
トドメは芸能の神、アメノウズメだ。彼女は乳房を露出し、腰紐をほどいて陰部まで曝け出し、桶を踏み鳴らしてトランス状態で踊り狂った。それを見た八百万(やおよろず)の神々は、一斉に大爆笑した。
この光景、想像できるだろうか。
世界が滅びかけているのに、政治家やリーダーたちが集まって、裸踊りを見て腹を抱えて笑っているのだ。狂気である。しかし、この「狂気じみた陽気さ」こそが、世界を救った。
アマテラスは「何事か?」と少しだけ岩戸を開け、そこをすかさず力持ちのタヂカラオがこじ開けた。世界に光が戻った瞬間だ。ここに、日本人の問題解決の「型」がある。

私たちは、深刻なトラブルを「正論(説教)」や「武力(強制)」では解決しない。論理で詰め寄れば、相手は余計に殻に閉じこもることを知っているからだ。
その代わり、場の空気を「笑い」や「共感」で温め、相手が「自分から出てきたくなる」状況を作り出す。北風と太陽の話に似ているが、日本神話の場合はもっと土着で、もっと生々しい。
「悲しいから泣く」のではなく、「笑う門には福来る」を地で行くバイタリティ。
どんなに辛い時でも、とりあえず花見をして、酒を飲んで、「ワッショイ(和を背負う)」と叫べば、なんとかなる気がしてくる。この「根拠なき楽観」こそが、太陽すらも動かす最強のエネルギーなのだ。
嵐が「英雄」に変わる時

しかし、この物語には続きがある。
高天原を追放された「歩く災害」スサノオは、出雲の地で、ある光景に出くわす。泣いている老夫婦と、生贄にされようとしている美しい娘(クシナダヒメ)。そして、彼女を喰らおうとする八つの頭を持つ怪物、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)だ。
ここで、スサノオの「嵐」の性質が一変する。彼はもう、ただ暴れ回るだけの台風ではない。彼はその強大なエネルギーを、破壊ではなく「守る」ことに向けたのだ。しかも、彼はただ力任せに挑んだわけではない。
強い酒を造らせ、オロチを酔わせて眠らせるという「知恵」を使った。

あのどうしようもない暴れん坊が、大切な人を守るために、冷静に、狡猾に、そして圧倒的な暴力で怪物を切り刻んだのだ。その尾から出てきたのが、三種の神器の一つ**「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」**である。
ここに、日本神話の真の救いがある。
私たちの中にある「スサノオ的なるもの」——衝動的で、空気が読めず、時々周囲を壊してしまう激しい感情。それは普段、厄介者扱いされるかもしれない。自分でも持て余すかもしれない。
でも、いざという時。理不尽な怪物が現れ、大切な人が脅かされた時。その「嵐」は、誰よりも頼もしい「英雄の剣」に変わるのだ。

私たちは、ただ曖昧に笑って過ごしているだけの「戦わない神様」の子孫ではない。私たちの中には、世界を滅ぼすほどの嵐と、それを知恵で御して怪物を倒す英雄が、同時に眠っている。だから、自分の中の激しさを否定しなくていい。
その嵐は、いつか必ず、あなたの大切なものを守るために抜くべき「剣」になるのだから。

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