アートの価値が「いいね数」で決まるSNS時代に、消費されない“永く残る作品”を求めて

コラム

「心を込めて描きました」
「この作品には、こんな想いを込めています」

SNSを開けば、こうした言葉とともにタイムラプスで描かれた絵が次々と流れてきます。感動的なBGMとともに、短い言葉で添えられる“物語”。そして、その下には「いいね」の数。便利でわかりやすい時代です。

でも、その「わかりやすさ」の奥に、ふと疑問が湧き上がりました。アートの価値って、いつから“共感数”で決まるようになったのだろう?そもそも、アートの価値ってなんだろう?

私はこれまで、アートを解説し、言葉にしてきました。でも今、SNSの海に流れていく作品たちを見つめながら、アートの本当の価値をもう一度問い直したくなったのです。このままアートは、音楽のように大量に生まれ、大量に消費されていくのか?それとも、速くなりすぎたこの世界にこそ、遅くて、深くて、すぐにはわからないものが必要なのではないか?

私自身の葛藤や経験、そして未来に残したいアートのかたちを書き残していきます。

アートは音楽のように消費されるのか?

たとえば、歌謡曲などが辿ってきた道をアートの未来と仮定しましょう。アートはこれから、音楽のように消費されていくものになるのでしょうか。音楽は既に大衆の手の中にあります。

誰もが曲を作れて、誰もが投稿できて、誰もが評価できる。そこでは、ある種の健全な仕組みが動いています。共感を呼んだもの、耳に残るもの、誰かの気持ちを代弁するものが、急速に拡散され、支持を集め、そして忘れられていきます。

もしアートも同じようなサイクルに乗るのだとしたら、それは決して“悪いこと”ではないのかもしれません。むしろ、それは健全な「文化の民主化」なのかもしれない。作品は閉じた世界のものではなく、誰でも参加できる開かれた表現になる。それ自体には意味があると思うのです。

でも――そう考えてもなお、どこか心の奥で引っかかっている自分がいます。アートが大衆化し、誰もが表現できるようになることと、現代美術が進んでいこうとする未来とのギャップ。

それは単なるわがままなのかもしれない。でもやはり、気になるのです。少なくとも私が見たいアートとは少し違うようなきがするのです。私が求めているアートとは、この瞬間のバズではなく、10年後、100年後にも問い続けられるようなもの。すぐに消費されるものではなく、じわじわと心の中で発酵していくもの。

それは、今の音楽のような「大量生産・大量消費」型のアートの在り方とは、少し違うのかもしれません。

評価と価値──誰が認めるかで決まる世界

現代美術の価値は、いったい何によって決まるのでしょう。

たとえば、ある作品が何千万円、何億円という価格で取引されると聞けば、「きっとすごい作品なのだろう」と思ってしまいます。でもその仕組みは単純で、誰がその作品を評価したかが大きく左右しています。

特に現代アートのマーケットでは、その価値はしばしば評価する人の財力によって左右されます。裕福なパトロンやギャラリスト、投資家が「いい」と言えば、作品は高値がつく。市場がそれを追認し、価格はどんどん吊り上がっていくこともあります。もちろん全ての作品がそうというわけではありません。そのまま失速する作品だってあります。しかしこの構造が存在すること自体は、ある意味で昔から変わらないのかもしれません。

ルネサンスの画家たちも、貴族や教会の注文によって絵を描き、その価値が保証されていました。アートの価値は、常に「誰かに認められること」によって可視化されてきたのです。そのような仕組みは、かつては一部の人間しか見ることはできませんでした。しかし、現代は誰もがその構造を知ることができてしまうでしょう。

お金を持つ人に気に入られれば、作品は高くなる──そんな仕組みを、知ってしまっているからこそ、素直に感動できない瞬間があるのではないでしょうか。

たとえば、SNSでバズっている作品を見たとき。あるいは高額で落札されたニュースを見たとき。「すごい」と思う前に、「なぜ評価されたのか?」をつい考えてしまう。

そこに芸術的な意味があるのか、それとも“資産としての価値”なのか。この透明すぎる構造が、私たちを少しずつ冷めた目にさせているのかもしれません。そして、アートというものが、本来持っていた“わからなさ”や“余白”までも薄れてしまっている気がします。

「いいね数」がアートを決める?

現代のSNSでは、「共感できるもの」が最も反応されやすい傾向にあります。タイムラインに流れてくる投稿には、わかりやすい説明が添えられ、感情を代弁するような一言が並んでいます。そして、アートもその文脈から逃れられないように感じています。

たとえば、「この作品は人間関係の悩みを描いたものです」「貧困や差別について考えながら制作しました」といった説明があると、見る人はすぐに“意味”を受け取ることができます。そこに共感が生まれれば、たくさんの「いいね」が付き、注目される。そんな仕組みが、今ではすっかり定着してしまいました。

わかりやすさ、共感、即時性。それらは、今の社会で非常に重要な価値を持っています。しかし、その一方で、私はどうしても違和感を抱いてしまいます。アートはもっと曖昧で、解釈に時間がかかってもいいものではないでしょうか。

答えを急がずに、むしろ“わからないまま”を抱えるような余白があってもいい。そういう作品にこそ、長く心に残る力が宿るように思います。もちろん、身近な悩みに寄り添う作品に価値がないとは思いません。ただ、「共感されること」=「アートの価値」となる風潮には、少し疑問を感じてしまうのです。

音楽の世界でも同じような傾向があります。

恋愛の悩みや、自己肯定感、人間関係のストレスを歌った作品が、広く共感を集めています。それらも現代に必要な表現だとは思いますが、一方で、もっと長い時間軸を前提とした作品もあっていいのではないかと思います。

すぐには理解されなくても、共感されなくても、100年後の誰かに届くことを願ってつくられた作品。アートには、そうした“時差のある価値”があってもいいと思うのです。共感されることがゴールではなく、“わからないまま、問いを残す”ことを求めたくなるのです。

素材も原型も、失われる時代に生きている

先日、大阪・関西万博に足を運びました。そこで私は、「未来のエコシステム」として紹介されていた展示のひとつに強い衝撃を受けました。

ジーンズ、古紙、コルク、木材など──

かつてはそれぞれに独自の風合いや個性があった素材たちが、すべて一旦分解され、再生可能プラスチックに変換され、新しいプロダクトに生まれ変わっていたのです。驚いたのは、その“元の素材が何であったか”が、仕上がった製品からはほとんどわからなかったことです。それは、ある意味で技術の進化であり、サステナブルな社会への前進でもあります。

けれど、同時に私は、ある種の怖さを覚えてしまいました。どんな素材から作っても、まったく同じものが生まれてしまうという事実に。素材にこだわることが、贅沢とみなされる未来がやってくるのかもしれません。かつてであれば、長く使い込むことで味わいが増すような道具や家具も、

「どうせまたリサイクルされるのだから」と、使い捨てに近い感覚で扱われていくかもしれない。リユースという発想は、そこに宿る記憶や時間を引き継ぐ営みでした。しかし、リサイクルは一度“素材”にまで解体され、再構成されてしまいます。そのプロセスを繰り返すうちに、私たちは“原型”を見失っていくのではないか──そんな不安を覚えました。

アートの世界でも、同じようなことが起きているように思います。作品が持っていた素材の特性や、手仕事の痕跡、作家の身体性が、デジタル化や量産化によってフラットになっていく。「何で作ったか」「どう作ったか」ということが、あまり重視されなくなる時代が訪れているのです。もちろん、それがすべて悪いとは思いません。

けれど私は、時間をかけて蓄積された「原型」を、あっさりと手放してしまう未来には、少しだけゾッとしてしまうのです。

トルクの速い世界と、遅い世界

インターネットが私たちの生活に深く浸透してから、情報の流れは劇的に加速しました。何かを検索すればすぐに答えが見つかり、タイムラインを眺めているだけで次から次へと新しい話題が押し寄せてきます。

「今、何が流行っているのか」「何がバズっているのか」を私たちは常に追いかけるようになりました。そうした世界は、言い換えれば「トルクの速い世界」だと思います。短い時間で一気に加速し、勢いよく回転する。トレンドが生まれ、消え、また新しいものが現れる。私たちの感情も、関心も、日々ものすごい速度で動かされているように感じます。

この加速のスピードは、ある意味で人間の本能にフィットしているのかもしれません。新しいもの、刺激的なもの、すぐにわかるものに私たちは快感を覚えます。情報に飢えた脳が、常にドーパミンを求めてスクロールし続けている。それが、今という時代の特徴だと思います。

しかしだからこそ、私はその反対側にある「トルクの遅い世界」の必要性を強く感じています。すぐに結果が出なくてもいい、答えが見えなくてもいい、時間をかけて咀嚼し、染み込んでいくようなもの。アートは、本来そうした“遅さ”にこそ宿るものではなかったでしょうか。

一見して何かわからない。

すぐに意味がつかめない。

けれど、ずっと頭の片隅に残って、ふとしたときに思い返すような作品。そういった“わからないまま抱えておくもの”を、私たちはもっと許してもいいのではないでしょうか。今はAIが“今をどう生きるか”を代わりに考えてくれる時代です。

だからこそ人間には、もっと「優雅に考える時間」や「答えの出ない問いと向き合う時間」が与えられてもいいはずです。流されるだけではなく、時には立ち止まり、立ち尽くす。そんなアートとの関わり方が、これからの時代にこそ必要だと私は思います。

自分自身のジレンマ

ここまで書いてきたことは、すべて「アートはもっと深く、ゆっくり味わうものだ」という私の考えに基づいています。けれど、実は私自身、その理想に反するような行動をしてきたのではないかと思うことがあります。

私はこれまで、「アートがわからない人に、わかるように伝える」という仕事をしてきました。美術史の知識をもとに、絵画や作品の背景を解説し、鑑賞のポイントを丁寧に言葉にして届けてきました。それは多くの人にとって、アートへの入口になったり、理解を深める手助けになったりするものであったと思います。

けれど、その一方で、アートが本来持っている「わからなさ」や「余白」を、自分の言葉で塗りつぶしてしまっていたのではないか、という気持ちが、最近になってふと湧き上がってきました。すぐに理解できるように説明すること。すぐに納得できるように意味づけすること。

それは、まさにこの「トルクの速い世界」の流れに、自分自身も乗っていたということなのではないかと思います。ですが、長年アートに向き合ってきたからこそ気づいたこともあります。それは、「わからないままにしておくこと」の大切さです。すぐに答えが出ないからこそ、何度も見返したくなる。理解できないからこそ、自分の中に残り続ける。

そうしたアートとの出会いが、実は一番記憶に残っているのです。

解説をしてきたからこそ、私は今、「解説できないもの」の価値にも気づいています。それは矛盾かもしれません。でも、その矛盾の中にこそ、アートの深みがあるようにも感じているのです。

私の理想のアートとは

私にとって、理想のアートとは何か。それは、おそらく「永く生きることを前提として作られているもの」だと思います。

短期的な共感や、そのときの感情に寄り添う作品には、大きな力があります。しかし私は、誰かの「今」のためだけではなく、何十年、何百年という時間を越えて、なお問い続けられるようなアートにこそ惹かれます。作品そのものが、作家の生を越えて長く生きることを前提にしている。そうした視点でつくられたアートには、強さと静けさが共存しているように感じます。

もちろん、自然の素材を使ったアートや、身体を通じた表現なども、現代的で力強い手法だと思います。ただ、それらが「時間をかけて育まれるもの」ではなく、「すぐに効果を得るための手段」として使われているとしたら、私は少しだけ興醒めしてしまいます。

では、理想のアートとは何か。

古典絵画を手本にすればいいのかと言えば、そう単純な話でもありません。たしかに、古典は素晴らしい作品ばかりです。でも、それらの多くは「美術作品」である前に、「遺産」としての意味を強く持っています。保存され、守られ、制度の中で価値を確立してきた存在です。今の私たちは、データとして永く残るものをいくらでも作ることができます。

クラウドに保存された画像や動画、SNSに投稿された記録──しかし、それらが「作品」として後世に残るのかは、また別の話です。私は、どうせなら「100年後に誰かの目に触れるかもしれない」ものがいい。むしろ、そのくらいの時間感覚で向き合ってこそ、本当の意味での“アート”になるのではないか。それが、今の私が考える理想のアートのかたちです。

西洋以外の視点を持つということ

私たちは、アートと聞くと、どうしても西洋の美術史を思い浮かべがちです。古代ギリシャからルネサンス、近代絵画、そして現代美術へと続く流れ。それは確かに数千年にわたって積み上げられてきた、壮大な文化の系譜です。しかし、それが「唯一の正解」だとは、私は思いません。

岡倉天心は、1906年に出版された『茶の本』の中で「いつになったら西洋人は我々東洋人のことを真に理解するのだろうか」と語りました。彼の言葉から、すでに120年が経っていますが、その問いは今もなお、私たちの目の前にあります。

最近では「アジア美術が注目されています」「アボリジニアートが再評価されています」といった声を聞くことも増えました。けれど、そうした動きの多くには、“オリエンタリズム”の影がまだ残っているように感じます。西洋的な視点のもとで、「異なる文化のアート」を“面白い”もの、“珍しい”ものとして消費してしまっているのではないでしょうか。私たちにはもっと、自分たちの足元にある価値観に目を向ける必要があります。

西洋美術が辿ってきた道には、やはり現状を否定し外側に真実を求めすぎているきらいがあるように感じてなりません。なぜカラーフィールド・ペインティングが生まれてしまったのか、過去の歴史を否定し、全く新しい未来を求めすぎてああなってしまったのではないのでしょうか。なぜ全否定か完全オマージュばかりなのでしょう。私はその発送がとても「西洋哲学的」と思ってしまうし、内側の真実になぜ眼を向けないのだろうとおもってしまうんです。少なくとも日本の哲学にそのように歴史を全面的に否定または肯定してから論述する発想がないように思うのです。もっとゆるくつながっているほうがよほど心地よい。

私の活動は、西洋美術をわかりやすく伝えようと努めたものでしたが、どうもその根底にある価値観の違いが、アートを分かりづらくさせているように感じるのです。何度行っても、壁に張り付いけたバナナの「中」に意味を感じようとしてしまうし、何度行っても便器の「中」に美しさを求めようとしているきがするのです。それは非界隈の人であればあるほどそう感じてしまうように思うのです。

アートの価値が“世界共通の評価軸”で決まる時代から、それぞれの文化ごとに異なる価値観が交差しながら共存する時代へと、私たちは進んでいくべきだと思います。西洋美術の歴史を尊重しながらも、そこに寄りかかりすぎず、私たち自身の文化や視点を、正々堂々と差し出す。そうすることで、初めて「多様性」や「共存」が、本当の意味で実現されていくのではないでしょうか。

おわりに

アートは、これからどこへ向かうのでしょうか。SNSで共感を集めやすい表現が支持され、その“わかりやすさ”が評価と価格に直結するような時代。制作の過程も共有され、作家の個人的なストーリーが、そのまま作品の価値になることもあります。

でも、本当にそれでいいのでしょうか。すぐにわかること。すぐに共感できること。短い時間で説明できることが、アートの価値を決めてしまうのだとしたら──私たちは、アートが本来持っていた“ゆっくりと考える力”や“わからなさに耐える力”を、失ってしまうかもしれません。

もっと時間のかかるものがあってもいい。すぐに理解されなくても、ずっと問い続けられるものがあってもいい。流されるアートではなく、立ち止まらせるアート。答えを与えるのではなく、問いを残すアート。そうした作品の価値を、私たちはどのように見つめ直していけばいいのでしょうか。アートの価値は、誰が、どのようにして、決めるものなのでしょうか。この問いを、私はこれからも考え続けていきたいと思います。

タイトルとURLをコピーしました