「まずは、指でぐっと穴をあけてみよう」
先生がそう声をかけると、子どもたちは恐る恐る大きな粘土に指先をつける。子ども用の油粘土ではなく、陶芸のシーンで使われる土粘土はひんやりと冷たく、そしてとても重かった。
まだ硬い塊の粘土は、まだ小さな手で扱うには難しい。「次はグーパンチ、グリグリしてみよう」「持ち上げて、床に落としてみよう」「足で踏んでみよう」。子どもたちは、お父さんやお母さんと一緒になって冷たい粘土と格闘していた。
土粘土が少しずつ柔らかく扱いやすくなると、子どもたちはみるみると創作にのめり込んでいった。初めは指でつまんでも変化がなかった粘土が、段々と思い通りに動かせるようになっていく。感触が少しづつ変化する度に、喜びが増幅していくようだった。
本ワークショップは、何でも揃う豊かな日常生活から少し離れ、ある種の不自由な状況に身を置くことにより得られる体験価値に焦点をあてたものでした。粘土ワークショップを通じて得られる体験は、子どもたちに何を残すのでしょう。私はワークショップを開催した美術館の思いを知るべく取材しました。
「親子でねんどワークショップ」

残暑がようやく落ち着いた10月下旬、私は浜松市鴨江アートセンターを訪れました。そこで開催されていたのは、静岡県立美術館が定期的に行っている「親子でねんどワークショップ」。今回はその粘土ワークショップの浜松出張ということで、浜松市の子どもたちにとってはとても新鮮な体験だったように思います。
スマホを開けばどんな情報でも手に入る時代。体を使い、感覚を研ぎ澄ませる体験の価値はますます高くなるように思います。体験は自分の意見を作り、未来を切り開く力を与えてくれると信じています。
私はデザインの専門学校でデザイン史を教えています。20世紀以降、私たちの暮らしは本当に豊かになりました。かつて富裕層しか手に入れられなかったふかふかのベッドや大きなソファ、美しい仕立ての家具たち。今では当たり前となった生活があるのは、過去のデザイナーたちの活躍があってこそです。しかし、デザインによって生活が豊かになった反面、私たちが手放したものも少なくありませんでした。
貧富の差やグローバル化、バリアフリーを考慮してきたデザインの歴史は、確かに素晴らしく誇らしいものです。しかし、誰でも簡単に使えるように設計されたものは、使う際の身体的負荷が少なくなっています。私たち人間には、時に五感を使い感覚を研ぎ澄ませる体験が必要なのです。
体験価値は物の価値を越える

昨今、様々な体験ワークショップが存在します。多くの場合、何かを作り、それを持ち帰って楽しむことができるでしょう。我が家にも、漆研ぎ体験で作ったお箸や、旅行先で作った貝殻の壁掛け時計などがあります。
しかし、「親子でねんどワークショップ」では、完成品を持ち帰ることはありません。持ち帰るものは、体験と思い出です。
体験前、冷たく硬い土粘土のブロックは子どもたちにとってまだ見ぬ素材でした。幼稚園などで使う油粘土は柔らかく、変形も容易ですが、土粘土はそうはいきません。小さな手のひらでペチンと表面を叩いてみても、殆ど変化なし。土粘土は、子どもたちのテリトリーの外にある素材でした。

そんな冷たい土粘土に、指で穴をあけたり、体重を乗せたりしてみる。粘土は子どもたちの体温を受け取ると、少しずつ形状を変化させ、やがて子どもでも扱いやすい柔らかさになっていきました。「扱えなかった」素材が「扱える」素材に変わったのです。
自分のものとなった素材をつかい、部屋中が創造の世界に包まれていきました。1時間もすると、硬いブロックだった粘土は様々な形に進化し、小さな粘土の街が誕生しました。使えなかった素材が自分のものとなり、さらに自分の想像を越えて成長する。そんな経験を、身体で感じたのです。
一つひとつ丁寧に作られているのはもちろんですが、この体験には、個々の作品の完成度を超えた価値があると私は感じました。

本物を届ける美術館の取り組み

今回のワークショップは、「静岡県立美術館移動美術展 静岡⇔浜松 アートの往来」のプレイベントとして開催されました。
移動美術展は、静岡県立美術館のコレクションを県内各地域に届ける展覧会です。静岡県は東西に広く、気軽に足を運べない県民も少なくありません。そこで静岡県立美術館では、1988年から「移動美術展」と題し、地域住民に親しみを持ってもらうため、出張コレクション展を毎年開催しています。
美術館本館での収蔵品展とは異なり、県内に縁のある画家たちの作品が選ばれたり、開催地に合わせたテーマで展示が構成されたりといったキュレーションがなされています。
「動く美術館」が私たちに届けてくれるもの
とてもユニークな視点での企画展。しかし静岡県外に目を向けると、全国各地に「美術館の方から地域に出向き、コレクションを展示する」取り組みが見られます。
愛知県美術館「移動美術館」
より多くの愛知県民にコレクションを鑑賞してもらうため、毎年「移動美術館」を開催。
本年は11月24日まで、豊川市桜ヶ丘ミュージアムで「花の時間:ちいさきうつくしきもの」が開催されています。
豊川市は国内有数のバラの産地であることから、「花」をテーマに、両館のコレクションを紹介する展覧会です。
千葉県立美術館「移動美術館」
40回を超える千葉県立美術館の「移動美術館」。昨年は10月13日まで、成田市文化芸術センターで「第49回千葉県移動美術館 成田と千葉県立美術館にまつわる5つの物語」が開催されていました。
成田駅からほど近いスカイタウン成田にある文化芸術センターを会場とし、成田市ゆかりの作家・篠﨑輝夫の特集展示が行われたほか、千葉県立美術館が所蔵する高村光太郎の代表作《手》(1918年頃)などが展示されました。
福岡県立美術館「移動美術館展」
こちらも所蔵品巡回展「移動美術館展」を毎年開催しています。令和7年度1月には「移動美術館展 洋館と時を紡ぐアート」が大川市の大川市立清力美術館で開催されていました。
明治期に清力酒造株式会社の事務所として建てられた歴史的洋館での、時をつなぐアートの展示。福岡県立美術館で初の回顧展が開かれた髙島野十郎などの作品が展示されました。
上記はほんの一例です。他にも多くの公立美術館で、各地域の住民に向けて「動く美術館」としての取り組みがなされています。これらは閉鎖的な美術館のイメージとは異なり、むしろ私たちの暮らしとつながる、親しみを覚えるものばかりです。
静岡県立美術館移動美術展 静岡⇔浜松 アートの往来

静岡県立美術館は、《考える人》でおなじみのオーギュスト・ロダンの彫刻や近代日本絵画をはじめ、バラエティ豊かな収蔵品を有しています。そんな作品たちが、各地域の特色に合わせ展示される「移動美術展」。通常の収蔵品展とは一味違う魅力が詰まっています。
本年は浜松市にある鴨江アートセンターを会場に開催される「静岡県立美術館移動美術展 静岡⇔浜松 アートの往来」。静岡市の息吹が浜松を訪れ、また新たな創作の芽を育てていくように感じ、胸が高鳴ります。
そんな展示のプレイベントである「親子でねんどワークショップ」では、形にした粘土は持ち帰れなくても、自分の手で世界を変えた感触は、子どもたちの中に残っていくのだと感じられました。それと同様に、美術館に展示された作品そのものを持ち帰ることはできませんが、作品に出会った体験は、私たちの中にいつまでも残ってくれるのだと思うのです。
展覧会の開催情報
| 項目 | 詳細 |
| 展覧会名 | 静岡県立美術館移動美術展 静岡⇔浜松 アートの往来 |
| 会期 | 2026/11/6〜2026/11/16 |
| 開場時間 | 10:00〜19:00(最終入場18:30) |
| 休館日 | 会期中無休 |
| 会場 | 浜松市鴨江アートセンター |
| 所在地 | 〒432-8024 静岡県浜松市中央区鴨江町1 |
| 観覧料 | 無料 |
| 主催 | 静岡県立美術館、浜松市鴨江アートセンター(指定管理者:浜松創造都市協議会・東海ビル管理グループ) |
| アクセス | JR浜松駅から徒歩約15分。バスは浜松駅北口3番乗り場から鴨江方面行きに乗車し、「鴨江アートセンター」下車 |
| 駐車場 | 来館者用駐車場なし。近隣の有料駐車場をご利用ください |
| お問い合わせ | 浜松市鴨江アートセンター:053-458-5360 |
会期中の鑑賞プログラム
- 学芸員によるフロアレクチャー:11月6日(金)16:00〜、11月7日(土)15:00〜。
- ボランティアによるギャラリーツアー:11月9日(月)・16日(月)、各日13:30〜/14:30〜。
いずれも参加無料、集合場所は101号室です。このほか、粘土や銅版画のワークショップ、アーティストとの交流会・鑑賞会も予定されています。事前申込が必要な企画もあるため、詳細は公式サイトをご確認ください。
※開催内容は変更される場合があります。来場前に公式サイトまたは公式SNSで最新情報をご確認ください。




