「僕、美術の成績2だったから、全部らちさんに任せるよ。」
就職して間もないころ、営業部の男性が何気なく口にしたその言葉を、私は今でもよく覚えています。任せてもらえたことは嬉しかった。でも、どこか胸の奥が静かに冷えていくような、そんな寂しさを感じました。
美術高校から美大へ。
学生時代、私は“アートがわかる人たち”に囲まれて暮らしていました。デッサンの描き方ひとつで語り合えるような仲間たちと、毎日が感性の応酬で満ちていたのです。けれど社会に出たとたん、その空気は一変しました。
「アート」や「美術」は、話題にすら上がらない。上がったとしても、「よくわからないけど、すごいんでしょ?」という曖昧な敬意の向こう側に、見えない壁がありました。それが悪いというわけではありません。
たとえば私は、スポーツの話になるとまったくついていけません。プロ野球の話で盛り上がる営業部の輪に入れないとき、彼らもまたこんな風に感じていたのかもしれないな、とも思います。けれど私にとってアートは、ただの趣味ではない、当たり前にそばにあったものでした。
学校の美術の授業は私にとって楽しい思い出ばかりでした。小学校の図工の授業はもちろん、中学からなぜか通っていた美大受験予備校でのデッサンも、高校美術科も、大学受験も。(大学生活は苦しい思いでもありましたが)だから今目の前にいる営業さんの反応がとても新鮮に映ったのです。
アートってもっと面白いんだけどなあ
その思いが、私の中に小さな火を灯しました。始めはポッドキャストで配信を始め、現在はyoutubeや講演などを通してそれらを伝えました。誰かに語りかけるように、ひとりの画家の人生。みんなが知ってるあの名画。そんな発信でした。皆様のおかげで、現在の活動につながっています。
アートは特別なものでもあり、日常的なものである

なぜ私たちは、もっと気軽にアートを語れないのだろう?知識がないから?教養がないから?むしろ私たちはすでにアートを気軽に語れているのかもしれない。しかしどこか隔たりがあるように感じてしまう──
私たちは日常の中で、色やかたち、感情や空気に敏感に反応しながら生きています。好きな服の色を選ぶとき、部屋に飾るポスターを選ぶとき、人はみな、小さな美意識を持っています。
けれど「それはアートではない」と、無意識に線引きしているのではないだろうか。それらが『アート』であるかの定義は今回は置いといて、『アート的な考え方』はその中に潜んでいるかもしれない。にも関わらず、「アートを語る資格なんてない」と思わされているのだとしたら、あまりにももったいない
現在『アート』は特別なものかもしれないが、アートは特別なものではないように思うのです。
日常の中で、深く感動する力そのものが、アートに触れるということなのだと、私は思っています。この思いを言葉にする場として、私は最初ポッドキャストという方法を選びました。作家の生き様や作品の物語を、より“人間の声”として伝えることができると信じていたのです。今思うと、もっと直球の方法があったかもしれません。しかし漠然とこのように感じていたかつての自分は、とにかく始めてみることを優先しました。
毎週木曜日、一人の芸術家の生涯と代表作を語るその配信は、気づけば多くの人に聴かれるようになり、思いがけずポッドキャストアワードに入賞することになりました。
「なんとなくすごい人なんだなと思ってた芸術家が、とても身近に感じられた」「偉人としてではなく、普通の人間として向き合えた」
リスナーさんから届いたそんな感想が、私にとっては何よりの励みでした。現在はより充実した内容を伝えたいと思い、主な発信場所をYouTubeにしています。
アートをカジュアルに伝えるという矛盾

「アートをもっとカジュアルに楽しんでもらいたい」
そう言葉にするたびに、自分の言葉がどこか空虚に響いている気がしました。本当に私は、アートを“カジュアルに”したいのだろうか?そんな問いが、いつも胸の奥に残るのです。
学校の授業で好きではなくなってしまった人、絵は好きだけど社会人になってすっかり疎遠になってしまった人。そんな人に、もっと手軽に手の届く位置で知識を提供したい。しかしその先に、win-winになる未来が待っているのか、そんな葛藤があります。
こちら側がいくらアートに近寄ろうとしても、アートはこちらに寄り添ってくれない(というか寄り添っては崩壊するのではないか)と思うからです。
美術は庶民の娯楽ではない残酷な現実
アートが「商品」としての顔を強めたのは20世紀後半。アートは文化的な表現であると同時に、投資対象としての価値を帯びはじめました。そこには、現代美術が持つ「わかりにくさ」と「希少性」が、資本主義にとって都合のよい条件として作用した側面がるのではないかと考えています。
税制度から見るアートと富裕層の関係

「アートが投資対象としての価値を帯びはじめた」背景として、世界各国におけるアート作品の税制優遇措置(税金控除・減税・免税など)をまとめます。
アメリカでは1954年よりアート寄付による所得控除が導入されていました。現在はトランプ政権下での大幅な見直しにみまわれていますが、アートが富裕層ビジネスと密接に関連していた痕跡がわかるでしょう。
フランスは、1985年から企業によるアート購入減税が導入されました。ミッテラン政権下で企業の文化支援を促進する目的でした。企業がアート支援を通じて社会的評価を得る文化、パトロナージュ制度は強力に機能しており、文化と経済が結びついたガバナンスモデルが成立しています。
イギリスでは相続税の一部をアート作品で納付することが可能となっています。またイギリスでも高額アートは投資であり節税の手段となります。
1980年代以降、アートマーケットは急速に国際的かつ金融的な構造を強めていきました。アートフェア、オークション、ギャラリー、それに伴う価格の吊り上げ。そのなかで生まれたのが、「資本に最適化されたアート」ともいえるものです。
キッチュから見る大衆文化とアートの壁
1960年代ごろから文化批評的な観点として登場した Kitsch(キッチュ)とは、「俗悪なもの」「いんちきなもの」「安っぽいもの」という意味があります。キッチュは現代美術の文脈では20世紀西洋で展開されたアバンギャルド(前衛芸術)から後のポップアートへのつながりで大きなキーワードです。私たち日本人にとって最も現代美術をわからなくさせている概念ではないでしょうか。
戦前戦後の現代美術には、かつての近代美術とは違うキッチュ的な思考が含まれていました。
キッチュにより、大衆文化をかつての権威的だったアートの部門で再現していきます。それが象徴する大衆文化を俯瞰する姿勢が含まれているのです。大衆の「キッチュ」的な文化思考をシニカルな態度で見つめる––アートとしては大衆文化を取り扱っていても、そこには意識の壁が大きく立ちはだかっています。

マウリッツォ・カテランという現代アーティストがいます。1960年イタリアの貧しい家庭に生まれ、1970年から80年代半ばにかけ、カウンターカルチャーで世界を席巻したアーティストです。壁にバナナをガムテープで貼った作品が、最も有名な作品ではないでしょうか。
彼はしばしばインタビューで「アートは答えを示すものではなく、問いを投げかけるものだ」と核心から逃げるような姿勢をとっています。このセリフは現在では独り歩きしているような気もしているが、元を辿るとロシアの劇作家・小説家のアントン・チェーホフの言葉にたどり着きました。
芸術家の仕事は、答えを与えることではなく、正しい問いを立てることだ。
The role of the artist is to ask questions, not answer them.
チェーホフは観客や読者を受動的に教訓を与えられる存在ではなく、自分で考え、感じる力を持った存在としてもちいたのです。観客に敬意を評す発言でした。しかしこの表現は、詩的・哲学的な意味合いで再帰的に解釈されてきました。
カテランはこの受け継がれた表現を、明確な説明や意味付けを避けるための解答として用いたのでした。

さらにジェフ・クーンズという現代アーティストがいます。日用品やキッチュなアイコンを巨大にスケールアップして展示することで、消費文化とアートの境界を曖昧にした人物です。
彼の表現は、既存のイメージやオブジェを模倣し新たな作品として発表する「シュミレーショニズム」という現代美術の文脈で語られますが、彼の作品も今回注目したいところです。
balloon Dogには子供の純真さや無垢な体験の永続性といったテーマを読み取ることができますが、今回はキッチュな文脈から考えてみたいです。彼の作品は極端なまでに肯定的で、批評や皮肉すら超越した「無垢なキッチュ」の極地ともいえる存在です。
安価な素材(ゴムの風船)で作られるオブジェクトを高級な素材(ステンレスなど)で高額な費用(巨大化する)で制作する。アート市場における価値基準を考えさせられる作品と指摘されています。 balloon dogのどこに高い価値を見出すのか。アート作品と思うと、オブジェクト(何が描かれているか、何が表現されているか)に価値をつけたくなりますが、実際このオブジェクトは子供のおもちゃでありクーンズのオリジナルでもありません。しかし実際に高額な値段がつけられているのです。
この皮肉を含めて、かつての権威主義的な美術の世界から逸脱する考え方でした。
アートのキッチュ的な姿勢には、美とはなにかという問を内包しているとよく語られています。それが逆に社会や文化の価値観を照らし出していると。しかしあまりにもその姿勢は紳士的とは言えないのではないでしょうか。
過去の権威主義から脱することはまさに近代哲学の文脈を継承するものでしょう。しかし過去の歴史に敬意を感じないのです。さらに大衆文化に対しても突き放しているような姿勢には、あまり共感できずにいるのです。それが現代的な富裕層の哲学なのでしょうか。だとしたらとても残酷な現実を私たちは目の当たりにしているのではないでしょうか。
(私個人としては、現代美術をマルセル・デュシャンから定義するのではなく是非ともセザンヌから定義していただきたいと感じてしまう)
富裕層ビジネスとしてのアートの姿勢
このようなキッチュ的な姿勢が肯定的に導入されたのは、文化が多様化した20世紀に、大衆文化と富裕層文化を上手く差別できたからではないかと感じています。これが、私が古典から近代、そして現代美術を俯瞰した感想でした。
そもそもculture(文化)はラテン語の「耕す/ colere」から始まったのですが、紀元前1世紀にcultura animi(魂の耕作)という言い回しが浸透し、「精神を耕す」から「教養を深める」という意味で使われるようになりました。この段階で文化=精神的教養(cultivation of the mind) という比喩的意味が含まれるようになったのです。
以降、文化とは主に上流階級や知識人の橋梁あるスタイルを指し、庶民の生活は含まれていませんでした。

しかし急速な経済成長を遂げる20世紀には、かつてculture(文化)で線引きできていたエリアに変化が起きたのです。一般庶民でも車を持ち、洗濯機や冷蔵庫など家電製品の普及により、日常に余暇が生まれました。そこでかつて上流階級しか許されなかった贅沢な暮らしが実現できるようになりました。デザイン史ではこれを「ポストモダン」などのようにカテゴライズしています。
上流階級の「文化」と庶民の「大衆文化」
1950年代にでてきたポップアートはこれまでCultureに含まれなかった庶民の生活を「popular culture(大衆文化)」とカテゴライズした物でした。同様に、アートそのものも、何かで大衆と自分たち(過去の権威主義とも違う、しかし大衆文化とも違う存在)を線引きしたかったのではないでしょうか。それが前述したキッチュ的な文脈として登場したと考えています。
キッチュ的なアートがこれほどに掴み所がないのは、私が大衆側からアートを覗き込んでいるからなのかもしれません。
美術の“カジュアル化”により手放すもの
それを感じている上で、私は「アートをカジュアルに」なんてスローガンをほざいています。カジュアル化することは、つまり富裕層ビジネスの中で完結していた共通認識を崩す行為です。それが果たしてwin-winな関係を築けるのでしょうか。私の葛藤はそういったものでした。

パリコレのようなオートクチュールコレクションが時折、そのあまりに奇抜な服装に「おもしろ」として消化される場面をみかけます。これこそ、一部の文化を大衆化した結果ではないでしょうか。
1900年代初頭を期限とするこのようなファッションショーは、もともとは現在のような大規模イベントではありませんでした。オートクチュール(高級注文服)を手がけるクチュリエたちが、自身のアトリエ(サロン)で富裕層の顧客やバイヤーを招いて、新作を発表する小規模なショーを行っていたのが始まりです。以降、ポール・ポワレやシャネルなどがフォーマットを使い、ファッションを芸術や表現の1つとして確立していきました。
ファッションショーが誕生した頃のファッションの価値とは、社会階層や性別、職業などを表す記号としての役割でした。しかし20世紀後半以降、ファッションが自己表現の手段となっていったのです。ファッションが単なる装飾を超え、芸術的な価値観を内包したのです。こうしてオートクチュールコレクションに「作品」としての価値が割り振られました。
さてその文脈を知らない層にいきなりこのビジュアルを披露したらどうでしょう?我々が日常で親しんでいる服とは「普段着れる服」です。
「普段着れる服」の水準で見ると、作品と化したコレクションはなんとも滑稽でしょうか。このように大衆化とは、前提の価値観を共有していない者の目にも触れてしまうということです。
「だから美術を学ぶには事前知識が必要だ」という論調でもいいのですが、前述の通り、事前知識を共有したところでwin-winになるか難しいのです。
誰もが“アーティストになれる”時代の祝祭と混乱

上記は鑑賞者にアプローチするという視点で話してきました。しかしアートのカジュアル化は単に鑑賞者を増やすだけの行為にとどまらないでしょう。それはアーティストになりたいと思う人々を関節的に生み出そうとする行為でもあります。
SNSに画像を投稿し、たった1日で何千もの「いいね」がつく––生成AIを使えば、だれでも数秒で“アートっぽい”作品をつくり出せる。YouTubeやTikTokでは、日々「現代アート」を自称する創作動画が拡散され、そのほとんどは美術館ではなく、スマホの小さな画面の中で鑑賞されていきます。
もはや、アーティストになることに許可は必要ありません。芸術大学に通っていなくても、個展を開いたことがなくても、何者でもない一個人が突然、数万人に届く作品を世に出すことができる時代になりました。
このような現象は、一見とても開かれた、美しく民主的な未来のように思えます。創作は一部の「選ばれし者」のものではない。表現することは万人に等しく与えられた権利だ――それは、確かに祝福すべきことでしょう。
しかし一方で、この「祝祭」には混乱もつきまといます。アートと称されるものがあまりに氾濫し、もはや何が「芸術」なのか、その基準が曖昧になっていく。価値の尺度が解体され、キュレーションの役割も揺らいでいきます。
アートの氾濫で現代美術は揺らぐのか

付箋girlという名称で活動しているアーティストがいます。SNSでの発信により作品を発表していまいたが、アートギャラリーsho+1が現代アート作品としてキュレーションし、現在では日本画をバックグランドにポップアート精神を引き継いでいると評価されているようです。東京藝術大学絵画科日本画大学院修了とされていますが、私が最初に作品と出会った頃は、どこの誰かもわからない状態だったと記憶しています。これは夢のある一例ですが全員がこうなれるわけでは勿論ないでしょう。
もっと残酷なのは、アートそのものは死なないことです。私達は常に、数百年前の作品と戦うことを要求されていますアートのカジュアル化には、そんな超レッドーオーシャンでアーティストの卵を間接的に生み出すことではないでしょうか。しかも私自身はその卵が無事に成長しなくても関係ない、残酷な位置にいるのです。私の影響力が大きいか小さいはという話でもなく、立ち位置に違和感があるという話です。
それでも「アートのカジュアル化」に希望を託している
どうであれ、20世紀に築かれた現代アートは、そろそろ革命の時がくるでしょう。それはより大衆に開かれており、より境界が曖昧になるでしょう。美術全体が民主化するのではないか──そんな風に思っています。
古典美術から築き上げた「価値」は崩壊するかもしれません。その影響で、現代アートは相対的に値段が下がるかもしれない。5万円以下、1万円以下のアート作品は大量に生まれ、10万以上のアート作品も市場価値が上がるのか、今まで以上にシビアになるでしょう。多くのアート作品が市場に参加し、多くの人の目にアートが触れるということは価値が下がる未来が訪れることを予見しているのではないでしょうか。それが数十年後なのか、数百年後なのかはわかりませんが。その未来で幸せになれるのは、趣味で続ける人間か、最前線(歴代数百年のアート作品と戦える)人。それ以外は苦しい時代となるでしょう。
アートのビックバンが起こる時代で、次の、つまり現代アートの次の美術を作るのは、私達日本人の中から生まれると信じているのです。
東洋に新時代のアートを託したい
ルネサンスから遡れば数百年、あるいは古代ギリシャ文化からすれば数千年の美術史は、主に西洋美術を主軸としてきました。20世紀美術で経済の舞台がアメリカにわたっても、文化の基本は西洋美術を模倣していました。現代アートでは「文脈」を大切にする潮流があり、それはすなわり西洋美術の思考を前提としたものです。

一方で日本や中国などアジア圏の美術は美術史の主線とは外れた位置にありました。近代美術では「オリエンタリズム(=東洋趣味)」や「シノワズリ(=中国趣味)」としてアジア圏の美術を採用したものでした。しかしその目線は「オレ(西洋美術)か、オレ以外か」でしかありません。

近年注目されている「アボリジナルアート(≒先住民的芸術)」も、結局は「オレか、オレ以外か」の目線から脱していないように感じてしまいます。
西洋芸術の弱点と東洋芸術に託す未来

西洋美術はこれまで、前世代を否定し新たな価値を提示する案を採用してきました。上の画像は普段学生に美術史/デザイン史を教えているときに使っているスライドの一部です。このように西洋史では眼の前のものを否定し、相反する新しい提案をしてきたように感じてしまうのです。その意思は現代美術にも引き継がれ、結局、現代美術は「カラーフィールド・ペインティング」に到達しました。

1950年代後半からアメリカで発展した抽象絵画のいち様式である「カラーフィールド・ペインティング」。カラーだけでフィールド(キャンバス全体)を覆うアート作品です。もはや描写の上で成り立つ絵画空間の表現を捨て去り、色面と、展示会場と鑑賞者が揃えば芸術鑑賞が成立するまでになりました。
これは近代美術が古典美術などの反動で写実を捨てた結末と感じています。
眼の前の現実ではない、外側に真実を求める姿勢

眼の前のものではない、外側に真実を求める姿勢は古代ギリシャ哲学からも読み取ることが出来ます。プラトンが提唱したイデア論には、実際に知覚できるもの(=ピスティス)の外側にイデアが存在するとしました。イデア(完全な型)は目に見えないもの、理性によって捉えられるものであると――そして現実世界はイデアの模倣に過ぎないと考えたのです。
私はこの考え方こそ西洋美術を読み解くための鍵になるのであり、西洋美術の弱点ではないかと思います。なぜ前年を否定するのか、なぜ温故知新の精神ではないのか。ずっと疑問だったんです。勿論大陸の国で常に戦争に見舞われた土地と、日本のような島国でのほほんと過ごしていた土地では考え方が大きく違うでしょう。まあ先程東洋芸術という括りを使いましたが、お隣中国では焚書坑儒を代表とする、過去の思想を完全に弾圧する行為が行われていました。
手前数十年の「文脈」の次ではなく、数千年の次、
次の時代を築くのは、西洋美術と平行線で築かれてきた東洋にあるのではないかと感じています。それは手前の数十年の「文脈」の延長ではなく、数千年の「様式」の転換です。そして東洋哲学には、西洋のような過去を弾圧し塗り替える思想とは異なる側面をもっています。厳密にいうと、私は「東洋」そのものにこだわりはありません。別になんでもいいんです。「東洋」と「西洋」の二分には、本質的にあまり意味がないように思うからです。
まとめ――真実は、内にある
『蜂と神さま』 金子みすゞ
蜂はお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土塀のなかに、
土塀は町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。
そうして、そうして、神さまは、
小ちゃな蜂の中に。
真実は外側の見えないどこかにある、という考え方よりも、真実は内側にありその実態はとても空虚なものであるという考え方は、私にはとても納得できるのです。
21世紀は民族も人種も性別も差別なく行きていこうと進んでいる時代です。アートにおいても、より広大な世界に羽ばたいていくことでしょう。そのような時代のなかで、どれがアートでどれがアートではないかは、本質的な問ではないようにかんじてしまうのです。
真実は万物の中にある。そしてその存在は別に崇高なものではない。
未来のアートを支える考えは、きっとこのような文脈なのか様式なのか――あるいはその分類も機能しないような、一直線でつなげられるものではないのかもしれない。そんな風に、感じています。
だから私は、アートをカジュアルに楽しんでもらいたく、これからも活動を続けていきたいと思います。



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