アートとは、ゆっくりと脈打つ存在である

コラム

最近、ふと立ち止まって考えることがあります。

「私たちが生きている“今”という時間は、一体どれほどの速さで流れているのだろう?」と。

たとえば、何気なくスマートフォンを手に取り、SNSを開いてみると、前の日に話題になっていたニュースやトレンドが、もうすでに“過去のもの”として扱われていたりします。昨日の関心事が、今日はもう誰の話題にも上らない。そんな場面に、私たちは日常的に遭遇しています。

AI技術の進化も目覚ましく、ほんの数日、数週間のうちに、新しいツールや概念が生まれ、それまでの「常識」をいとも簡単に塗り替えてしまいます。数ヶ月も経てば、新たなサービスや表現手法が世に出て、それがすぐに私たちの生活に溶け込んでいく。まるでこの社会全体が、トップギアに入れたままの車のように、アクセルを緩めることなく加速し続けているように感じられます。

もちろん、そのスピード感には目を見張るものがあります。技術革新によって私たちの暮らしが便利になり、可能性が広がっているのは確かですし、その流れにある程度乗っていくことも、現代を生き抜くためには必要なことでしょう。

しかし一方で、こうも思うのです。この終わりの見えない加速のなかで、私たちは何か大切な感覚を置き去りにしてはいないだろうか、と。

目の前の変化に対応し続けることに追われるあまり、「自分にとって本当に必要な時間」や「深く息を吸う余白」のようなものが、どこかに押しやられてしまってはいないでしょうか。

果たして、私たちはこのスピードの波にただ流されていくだけでよいのでしょうか。

それとも――流れの中にあってもなお、自分のリズムを見つめ直す機会を、意識して持つべきなのでしょうか。

時間の流れが違う世界

そんなふうに日々のスピード感について思い巡らせていたある日、ふと、過去に出会った一つの作品の記憶がよみがえってきました。それは、イタリア・ルネサンス期の画家、カルロ・クリヴェッリによる《レンティの聖母 Madonna and Child》です。

彼は15世紀に活躍し、多くの宗教画を残した画家として知られています。ある展覧会でその作品が日本にやってきた際、私は幸運にも、実物を間近で鑑賞する機会に恵まれました。そのときの体験は、今でもはっきりと心に残っています。

絵の中に描かれていたのは、聖母と幼子イエス。何百年も前に描かれたはずの作品なのに、そこには古びた印象や遠い歴史の重たさといったものはなく、むしろ驚くほどの静けさと、やさしさが宿っていました。とくに印象的だったのは、聖母の表情でした。

どこか微笑んでいるようにも見える、けれど明確な笑みではない。深い慈しみと、静かな意志がにじみ出るようなその表情は、まさに「普遍的な微笑み」と呼べるものでした。その前に立っているあいだ、私は不思議な感覚に包まれていました。

まるで自分の時間だけが止まってしまったような、あるいは、その絵の中の静寂がこちらにまで押し寄せてきて、自分の鼓動までゆるやかになっていくような……そんな体験でした。

「ああ、アートというのは、こんなふうに“ゆっくりと”、でも確かに“脈打つ”存在なのだな」と。

それは、速さや変化とは別の軸で、私たちの感情や記憶に作用する、まさに“時間を超える存在”だと感じた瞬間でした。

トルクの早い世界と、アートの役割

現代を生きる私たちは、いくつもの異なる時間の流れの中を、同時に行き来しながら暮らしています。

たとえば、AIやインターネットの世界は、もはや“秒速”という表現がぴったりなくらいのスピードで動いています。新しい情報、新しい技術、新しい価値観が、日々、怒涛のように私たちのもとへ押し寄せてきます。その波に乗り遅れまいと、私たちは頭をフル回転させ、体を休ませる間もなく対応し続けています。

けれども、そんな急加速の社会の中にありながら、私たちの心や体は、必ずしもその速さについていけるようにできているわけではありません。本来、人間という存在は、もっとゆるやかに、もっと時間をかけて、感じ、考え、反応するものではないでしょうか。それは、生きものとしての自然なリズムであり、意識せずとも私たちの奥深くに刻まれているものです。

今の社会は、まさに「トルクの早い世界」と言えるかもしれません。

少しアクセルを踏めばすぐにスピードが出る車のように、私たちにも瞬発力や即応力が求められています。何かが起きたときにすぐに動ける人間であること、変化を恐れず常にアップデートできる存在であることが、高く評価される時代です。けれど、だからこそ私は思うのです。そんな世界だからこそ、必要なのではないでしょうか――あえてスピードに抗うような存在を。世の中の動きとは正反対にあるような、「大きく、ゆっくりと動くもの」。そして、それを私たちのそばに置いておくことの大切さを。

アートというのは、まさにその“対極”にある存在だと私は感じています。

すぐに成果や結論を出すことは求められないし、答えが一つに決まっているわけでもありません。ただ静かに、深く、私たちの感覚や思考に語りかけてくる。それはまるで、私たちの内側にある「もう一つの時間」を思い出させてくれるような存在です。

だからこそ、アートが必要なんだ

アートというものは、決して数日や数週間で消費されるような存在ではありません。数年というスパンですら短すぎるほどで、数百年、時には千年という単位で、生き続けていくものです。そのあいだ、私たち人間は国を築き、時には争いでそれを壊し、また新たに立て直しながら歴史を紡いできました。技術や制度、価値観はめまぐるしく変わり、昨日までの常識が、今日にはすでに過去のものになってしまうこともあります。

けれど、アートはそんな人間の営みのすべてを、静かに見守り続けてきました。そして何より、そのたびに私たちに問いかけてきたのです。

「あなたは、どんなふうに生きているのか?」

「何を感じ、何を大切にしているのか?」

「これから、どこへ向かおうとしているのか?」

そうした問いに、すぐに答えを出す必要はありません。けれど、その問いに向き合う時間を持つことが、私たちには必要なのではないでしょうか。

めまぐるしく流れていく日々の中で、ほんの一瞬でも「時間が止まったかのような感覚」を味わうことは、とても贅沢なことのように感じられるかもしれません。ですが私は、それは決して贅沢ではないと思います。

むしろ、今のような時代だからこそ、そうした「止まる時間」「深く感じる時間」を意識して持つことが、私たちが人として健やかに生きていくための“必需品”なのではないでしょうか。アートは、ゆっくりと、しかし確かに脈を打ち続けています。その静かな鼓動に、そっと耳をすませてみてください。

すると、これまで聞こえてこなかったはずの、自分自身の内なる声が、ふと立ち上がってくるかもしれません。


もし、日々のトレンドに追われて、少し疲れてしまったと感じたら。

もし、時間の流れがあまりにも速く、自分を見失いそうになったときには。

どうか、一枚の絵の前に立ってみてください。何かを決めようとしなくてかまいません。ただ、その作品と静かに向き合ってみてください。やがてその絵が、あなたの中でゆっくりと鼓動を打ち始めるのを感じられるはずです。その一瞬が、あなたの時間を、ほんの少しだけ変えてくれるかもしれません。

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