2025年5月18日から、万博イタリア館で展示が始まるミケランジェロの彫刻《十字架を持つキリスト》。
速報では復活のキリストと訳されていましたね。日本では《十字架を持つキリスト》《ジュスティニアーニのキリスト》と呼ばれています。じつはこの像、ミケランジェロが完成間近で手放した“未完のキリスト像”なのです。
なぜそんなことが起きたのか?
その理由を探っていくと、ミケランジェロという芸術家の内面や、ルネサンス美術の本質にも迫ることができます。
• なぜ未完に終わったのか?
• 黒い筋の謎とは?
• ミケランジェロが込めた意味とは?
• どこを見て鑑賞するとより深く味わえるのか?
これらを丁寧に解説していきます。
復活のキリスト=十字架を持つキリストとは?

ミケランジェロの《十字架を持つキリスト》(Cristo Portacroce)は、もともとローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会内にある、グリフィ礼拝堂のために制作された彫刻作品です。
依頼をしたのは、メテロ・ヴァーリ・デ・グリフィ(Metello Vari de’ Grifi)というローマの法学者であり、バチカンにも仕えていた文化人。グリフィ家はこの礼拝堂を、自分たち一族の墓所=祈りと記憶の空間として整備しようとしていました。
そこで中心に据えるべく注文されたのが、ミケランジェロによる等身大のキリスト像。
しかも、ただのキリスト像ではなく──復活したキリストが、自らの十字架を手にして立ち上がっている姿です。

復活後のイエスを描いた作品の例
この構図はかなり珍しいものでした。通常、磔刑にされたイエスを表現する場合は、苦しみに満ちた姿や、横たわった姿が多く、十字架を抱える“復活後”のイエスというのは、当時としては新しい解釈だったといえます。
ミケランジェロは、全裸のキリスト像としてこの注文に応じました。身長は約205cm──ほぼ等身大の大理石像。
全身を引き締め、静かに十字架を抱える姿からは、神性と肉体性、静けさと力強さが同時に伝わってくるような緊張感があります。
なぜ“復活”のキリスト?

この像が描くのは、磔刑にされたあと、復活して再び立ち上がったキリストの姿です。新約聖書『ヨハネによる福音書』によれば──
イエスは金曜日に処刑され、岩の墓に葬られました。しかし3日後の日曜日の朝、弟子たちが訪れると墓は空になっており、そこで天使から「彼は復活した」と告げられたとされています。
この場面は、キリスト教における“希望と救いの象徴”です。つまり、死を乗り越えて立ち上がる者としてのキリスト。その精神性を、ミケランジェロは彫刻として形にしたわけです。
礼拝堂の中での意味
このキリスト像は、一族の礼拝堂に設置される予定だったことから、単なる宗教的装飾ではなく、“死の先にある救い”を訴える空間の中心”として構想されていたと考えられます。
礼拝堂を訪れる者が、祈りを捧げる中でこの像を見上げる──そこには、「自分たちもまた、死の先に復活しうる」という信仰のメッセージが込められていたのでしょう。
技術と信仰が融合した構想
ミケランジェロは、こうした“魂の彫刻”を制作するにあたって、技術的にも精神的にも極限まで集中していたと考えられます。それだけに、のちに「黒い筋」が顔に現れたとき、彼はこの像を完成させることができなかった──というエピソードにもつながっていくのです。
なぜ未完に終わったのか?
このように、ミケランジェロの《十字架を持つキリスト》は、復活したキリストを象徴的に表現し、依頼者の礼拝堂にふさわしい祈りの像として期待されていました。しかし実際には、この像は完成することなく、ミケランジェロ自身の手で制作が中断されることになります。
理由は、彫刻を進めていく中で、キリストの顔──とくに左頬に一本の黒い筋が現れたからです。これは、石材である大理石に元々含まれていた不純物が、彫っていくうちに表面に浮かび上がったもの。天然の素材である以上、こうした筋が出てしまうのは珍しくないことですが、問題はその位置と、作品のテーマでした。

ミケランジェロにとって、キリストの「顔」は単なるパーツではなく、“魂”そのものを表す場所でした。そんな場所に、目立つ黒い線が入ってしまった――それは、彼にとっては致命的な出来事だったのです。
現代の感覚で言えば「これはこれで味がある」と感じる人もいるかもしれません。顔に傷をもつ“二枚目キャラ”はよく登場しますよね。しかしミケランジェロは、そうは思わなかった。
神の子であるキリスト、その顔に“キズ”があることを、彼は許せなかったのです。そして、完成を目前にしながら、静かにノミを置きました。この像は結局、依頼されたミネルヴァ教会には収められず、いったん依頼主であるメテロ・ヴァーリの自宅の中庭に飾られた後、1607年に売却。その後、長らく行方不明となります。再発見されるのは、実に400年近くが過ぎた、2000年のことでした。
再発見された第1作と、完成版の第2作

未完のまま放棄された《十字架を持つキリスト》第1作は、1607年に売却された後、長らくその所在が不明となっていました。しかし、2000年、イタリアの美術史家イレーネ・バルドリガ(Irene Baldriga)が、ラツィオ州バッサーノ・ロマーノにあるサン・ヴィンチェンツォ・マルティーレ教会の聖具室でこの像を発見。保存状態が良く、顔に黒い筋があり、ミケランジェロの彫刻様式にも一致していたことから、失われた第1作目の《十字架を持つキリスト》と特定されました。
つまり現在、この“黒い筋入りの未完のキリスト像”は、小さな教会にひっそりと置かれながらも、確かにミケランジェロの「手」が残された貴重な作品として再び評価されています。
一方で、ミケランジェロはこの放棄から数年後、1519年頃に新たな大理石を用いて、ふたたび同じ構図の《十字架を持つキリスト》の制作に着手しました。これが、いわゆる“第2作目”にあたる像であり、今回日本で展示されるのはこちらの方です。

この第2作は、完成までにミケランジェロ本人の手が完全に及んだわけではなく、仕上げは弟子たちによって施されたと考えられています。また、後世になってから腰布が追加されるなど、一部は後補が入っています。それでも、ミケランジェロのデザインや彫りの思想は随所に残されており、完成度は極めて高いものです。
彼が“最初の石”では叶えられなかった美と信仰のかたちを、第二の石に託し、それでもなおすべてを彫りきることはなかった──そこには、芸術家としての執念と諦念の両方が刻まれているように思えます。
技術的な見どころと鑑賞ポイント
ミケランジェロが追求したのは「神の姿を人間の肉体で表現すること」でした。そのため、彫刻としての構造や肉体表現、細部の緊張感に至るまで、彼のこだわりがあらゆる面に現れています。ここでは、実際に展示を観に行ったときに注目したいポイントをご紹介します。
まず最も目を引くのは、キリストの立ち姿。片足に重心をかけて立つこのポーズは「コントラポスト」と呼ばれる古典的な立ち方です。体の軸をややずらすことで自然なS字カーブが生まれ、全身に流れるようなリズムと人間らしい動きが出ます。ただまっすぐ立っているのではなく、“生きた肉体”として感じられるのは、このわずかなひねりの演出によるものです。

次に、筋肉表現。胸板、腹筋、腕のねじれなど、どれを見ても非常に解剖学的でリアル。それでいて力強さや神聖さが感じられるのは、単なる写実を超えた「理想化された肉体美」を追求していたからです。とくに大理石とは思えないほど柔らかく見える皮膚の表現には、ぜひ注目してみてください。
顔の表情や目線も見逃せません。キリストの目は鑑賞者と目を合わせることなく、わずかに伏せられています。このことで像全体に内向的で静かな空気が生まれ、神聖な距離感を演出しています。見つめ返されないことが、むしろこちらに何かを問いかけてくるような、不思議な効果をもたらしています。
さらにマニアックなポイントを挙げるなら、十字架の構造や接合部にも注目を。十字架の上部が取り外し可能になっており、そのつなぎ目がやや粗く仕上げられているという観察もあります。こうした部分にこそ、ミケランジェロがどこまで手を入れ、どこを後世に委ねたのかを感じることができます。

そして最後に、第1作にある「黒い筋」。これはただの素材の不具合として見過ごすのではなく、「ミケランジェロがなぜここで手を止めたのか」「私たちならこれをどう見るか」という対話のきっかけになります。人によっては「不完全だからこそ美しい」と感じるかもしれませんし、「これはキリストが受けた傷を象徴しているように見える」という人もいるかもしれません。
ミケランジェロがノミを置いたその瞬間の判断。その“迷い”や“未完”をどう受け取るかも、現代の私たちに託された、鑑賞の楽しみ方のひとつです。
この像が語りかけてくるもの

ミケランジェロの《十字架を持つキリスト》は、完成された美しさをただ見せつける作品ではありません。むしろ、未完であるがゆえに、そこに込められた作者の葛藤や迷いが、静かに、しかし確かに語りかけてきます。
顔に現れた黒い筋。それはミケランジェロにとっては致命的な瑕疵でしたが、私たちにとっては、ただの“傷”ではなく“意味”に変わります。魂を刻むはずだった顔に現れた思いがけない線。その線は、イエスが受けた痛みの象徴であるようにも見えるし、ミケランジェロ自身の“諦め”の痕跡でもあるように感じられるのです。
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