大阪・関西万博で出会う「ファルネーゼのアトラス」――古代の宇宙観と大理石の力

ギリシャ神話大全

2025年の大阪・関西万博。その会場でひときわ異彩を放つ存在が、イタリアからやってきます。

それが「ファルネーゼのアトラス」――約2000年前に制作された大理石の彫刻で、ギリシャ神話に登場する巨人アトラスが、丸い天球を背負って膝を折る姿を描いた作品です。このアトラス像が特別なのは、単なる筋骨隆々の神話像というだけではありません。彼が背負っているのは、単なる球ではなく、48の古代星座が刻まれた「宇宙」そのものなのです。神話、芸術、そして古代の天文学がひとつに結晶したこの彫刻は、今なお「空を見上げる」私たちに語りかけてきます。

なぜ今、この作品が日本で展示されるのか?そこには、過去から未来へとつながる人類の“知”と“まなざし”が込められています。

ファルネーゼ家のコレクション

「ファルネーゼのアトラス」は、ローマ時代の大理石彫刻で、ギリシャ神話に登場する巨人アトラスが、天球を背負ってしゃがみ込む姿を描いた作品です。高さは約2メートル。現在はナポリ国立考古学博物館に所蔵されています。

この像が「ファルネーゼのアトラス」と呼ばれるのは、16世紀のルネサンス期にこの像を所有していた名門ファルネーゼ家にちなんでいます。

フランチェスコ・モーキ作「ラヌッチョ1世・ファルネーゼの騎馬像」

ファルネーゼ家は、ルネサンスからバロックにかけてイタリアで大きな影響力を持った名門貴族です。起源は中部イタリアのラツィオ地方にさかのぼり、16世紀には一族からローマ教皇パウルス3世(アレッサンドロ・ファルネーゼ)を輩出するなど、宗教・政治の両面で重きをなしました。

彼らの名を不朽のものにしたのは、その文化への深い理解と支援です。ファルネーゼ家は芸術や古代遺物の蒐集に情熱を注ぎ、ローマやナポリに壮麗な宮殿を築き上げ、当時の芸術家や建築家に多大な影響を与えました。特に教皇パウルス3世(アレッサンドロ・ファルネーゼ)は熱心な収集家であり、彼が即位した1534年頃、古代彫刻の収集もはじまったとされています。今回ご紹介する「ファルネーゼのアトラス」もこの時期にコレクションに加わったのでしょう。

「ファルネーゼ・コレクション」と呼ばれる古代彫刻群には、ヘラクレス像やアトラス像、トロイ戦争を描いた浮彫など、ローマ帝政期に模刻されたギリシャ彫刻の名品が数多く含まれます。これらは後にナポリへと移され、現在はナポリ国立考古学博物館に所蔵されています。

ナポリ考古学博物館に所蔵されているファルネーゼのヘラクレス

現代の私たちが古代彫刻の美と思想に触れられるのは、こうしたファルネーゼ家の情熱と遺産のおかげともいえるでしょう。

ファルネーゼのアトラス

紀元2世紀頃に制作されたとされるこの作品は、今では失われたとされる古代ギリシャ彫刻のオリジナルをローマ時代に模刻したものと考えられています。

注目すべきは、アトラスが背負う球体。これは単なる「重さの象徴」ではなく、48の星座が精緻に彫られた天球=宇宙図なのです。トレミー(クラウディオス・プトレマイオス)の『アルマゲスト』に記された古代の宇宙観を彫刻として視覚化した、現存最古の「星座入り天球彫刻」でもあります。

彫刻としての美しさ、神話のドラマ性、そして科学的知識がひとつになったこの像は、まさに「知の結晶」とも呼べる存在です。

大阪・関西万博で展示されたファルネーゼのアトラス
アトラスはなぜ空を背負うのか

アトラスは、ギリシャ神話に登場するティタン神族のひとり。彼は巨体と怪力を誇る神でありながら、悲劇的な運命を背負わされた存在でもあります。

神話によれば、アトラスはゼウス率いるオリュンポスの神々と戦ったティタノマキア(ティタン戦争)で、ティタン側につきました。結果は神々の勝利。敗れたアトラスには、ほかのティタンたちとは違う、特別な罰が与えられます。それが――

「天を支える」という永遠の刑罰。

アトラスは大地と天が混沌とならないように、天の柱を肩に担ぎ、空(ウラノス)を支え続ける宿命を負ったのです。時代が下るにつれ、この“空”はしばしば「天球」として描かれるようになり、星座を刻んだ球体として表現されるようになりました。

この物語は、英雄ヘラクレスとも交差します。ヘラクレスが黄金のリンゴを手に入れるため、アトラスに一時的に天球を代わってもらうエピソードは有名です。ヘラクレスはアトラスにだまされそうになりますが、機転を利かせて天球を押し返し、見事にリンゴを持ち帰ります。

ファルネーゼのアトラス像は、まさにこの神話を具現化したもの。天球に膝をつき、全身で空を背負うアトラスの姿は、神々への反抗、罰、そして宇宙の秩序という重層的なテーマを静かに語っています。

コルネリス・ファン・ハールレム『タイタンの墜落』1588-1590
彫刻としての魅力

ファルネーゼのアトラスは、ただの神話像ではありません。見る者の目を奪うのは、その圧倒的な存在感と、精緻な造形、そしてそこに込められた古代人の“宇宙へのまなざし”です。

まず目を引くのは、筋肉隆々の巨体で天球を背負うアトラスの姿。その姿勢には躍動感がありながらも、どこか静けさと重みが漂っています。見る角度によって、力強さと苦悩が同時に伝わってくるような、不思議な魅力があります。

そして彼の背にある球体――これはただの重さの象徴ではありません。そこには、古代ギリシャの天文学に基づいた48の星座が浮き彫りで描かれています。

この天球は、現存する中で最古の「星座付き地球儀」とされ、アートであると同時に科学的資料でもあります。つまりこの彫刻は、神話・芸術・科学の三つが融合した、いわば“古代の知の結晶”なのです。

遠い昔、夜空を見上げては星を読み解いていた人々の想像力と観察力が、このひとつの石に凝縮されている。その事実を思うと、私たちはこの像の前でただ立ち尽くすしかないのかもしれません。

引用元
プトレマイオスの48星座

ファルネーゼのアトラスに彫られているとされる48の星座は、古代の天文学者クラウディオス・プトレマイオス(プトレマイオス、Ptolemy)が『アルマゲスト』でまとめたものと一致しています。これらは「プトレマイオスの48星座」と呼ばれ、西洋占星術や天文学の基礎となった古代の星座体系です。

12星座(黄道帯星座)
名称name説明
おひつじ座Ariesギリシャ神話では、黄金の毛を持つ羊・クリソマロスに由来。冒険の始まりを象徴する星座
おうし座Taurusゼウスが白い牡牛に変身し、フェニキア王女エウロペをさらった伝説に由来。大地と力強さ、豊穣の象徴とされる
ふたご座Gemini仲の良い双子の兄弟、カストルとポルックスの神話に由来。兄は人間、弟は神という異なる存在ながら、強い絆で結ばれていた。友情や兄弟愛の象徴
かに座Cancerヘラクレスがヒュドラと戦った際、女神ヘラが送り込んだ蟹が由来。戦いの最中に踏みつぶされたが、忠誠を讃えて星座になった。献身や陰の力を表す
しし座Leoヘラクレスの12の功業のひとつ、ネメアの獅子退治に登場。倒すことが困難な不死身のライオンを象徴する星座。勇気と誇りのしるし
おとめ座Virgo農業と正義の女神デメテルやアストライアに関連する説がある。純粋さ、知性、豊かさを象徴する、神秘的な存在
てんびん座Libra唯一、神や生物ではなく「道具」で表現された星座。正義の女神が持つ秤とされ、バランス、公平さ、調和を象徴
さそり座Scorpisus狩人オリオンを刺し殺した大サソリに由来。大胆で執念深い一面を持ち、変容と再生の象徴でもある
いて座Sagittarius下半身が馬のケンタウロス族・ケイロンがモデル。知恵と戦いの技術に長けた存在で、自由、探究心、哲学的思索を象徴する
やぎ座Capricornus海のヤギとも言われ、神パンや牧神アマルテイアが関係する。山と海、両方を生き抜く存在として、忍耐と現実的な知恵を象徴
みずがめ座Aquarius美少年ガニメデがゼウスに見初められ、神々に酒を注ぐ役目を担ったという神話に由来。知識や博愛、人道的精神を象徴する
うお座Piscesアフロディーテと息子エロスが怪物から逃れるために魚の姿になったという伝説に基づく。夢、共感、無意識の海を象徴する神秘的な星座
北天の星座(北半球で見える星座)
名称name説明
こぐま座Ursa Minor北極星を含む星座。ギリシャ神話では、ゼウスに愛されたカリストとその息子アルカスが熊に姿を変えられ、空に上げられたとされる。航海の道しるべでもある。
おおぐま座Ursa Major北斗七星を含む大きな星座。こぐま座と同じくカリストに由来し、親子の熊が夜空に並ぶ物語がある。北の空の象徴的存在。
りゅう座Draco天の北極を取り囲むように伸びる長い星座。ヘラクレスに退治された「ヘスペリデスの林の番人」ラドンとされる。神話ではしばしば悪役の怪物として登場。
カシオペヤ座Cassiopeiaエチオピアの王妃カシオペヤがモデル。自惚れの罪で罰せられ、椅子に縛られたまま夜空を回る姿が星座になった。W型の形が特徴的。
ケフェウス座Cepheusカシオペヤの夫でエチオピアの王。妻と娘(アンドロメダ)を救うため海神に犠牲を差し出す。控えめだが重要な王の星座。
アンドロメダ座Andromeda海の怪物の生贄にされかけた王女。ペルセウスに救われ、その後空に上げられた。長く伸びた星の並びが鎖に繋がれた姿を思わせる。
ペルセウス座Perseusアンドロメダを救った英雄ペルセウスの星座。メドゥーサの首を掲げた姿ともいわれ、星「アルゴル」はメドゥーサの目とされる不吉な星。
ぎょしゃ座Auriga馬車を操る人物の姿。神話では山羊アマルテイアを育てた羊飼いや、足に障がいを持つ発明家エリクトニウスとも。明るい星カペラが目印。
ヘルクレス座Hercules12の冒険で知られる英雄ヘラクレスの姿。膝をつき、天空に向かって戦うようなポーズで描かれている。強さと勇気の象徴。
へびつかい座Ophiuchus医術の神アスクレピオスの姿。死者を蘇らせる力を持っていたため、ゼウスにより星座にされた。へび座とセットで描かれることが多い。の象徴。
こと座Lyra音楽の神オルフェウスが使った竪琴に由来。愛する妻を黄泉の国から連れ戻そうとした悲恋の物語がある。ベガを含む小さな美しい星座。
はくちょう座Cygnus白鳥に姿を変えたゼウス、あるいは親友を探しに空を飛んだ青年の伝説がもと。十字の形が特徴で、夏の大三角を構成する。
ペガスス座Pegasus空を飛ぶ馬ペガサスの星座。ペルセウスがメドゥーサの首を斬ったとき、その血から生まれたとされる。大きな四辺形「秋の四辺形」が有名。
イルカ座Delphinus海の神ポセイドンの使者となった小さなイルカの姿。恋のキューピッド役を果たした心優しい存在として知られる、かわいらしい星座。
南天の星座(南半球で見える星座)
名称name説明
ケンタウルス座Centaurusギリシャ神話に登場する半人半馬の種族。特に賢者ケイロンと結びつけられる。射手座とは別の存在。南半球では非常に大きく明るい星座。
おおかみ座Lupusかつてはケンタウルスに捕らえられた獲物として描かれていた。特定の神話はなく、古代ギリシャでは「野獣」として扱われていた。
カラス座Corvusアポロンに仕えていた黒いカラスが、使いを怠ったことを怒られ、天に上げられたという神話がある。水差し座(Crater)とともに登場する。
コップ座Craterギリシャ神話で神々が使う酒杯。カラス座のすぐそばに描かれ、アポロンの使いの場面を再現しているとされる
ろくぶんぎ座Sextans17世紀以降に追加された近代星座
ほ座Vela元々はアルゴ船座の一部として扱われていた。プトレマイオス時代にはアルゴ座(Argo Navis)という巨大な星座として扱われていた。
いっかくじゅう座Monoceros近代星座
とも座Puppisアルゴ座(英雄イアソンの乗った船)を後世に分割したうちの一つ。船の後部にあたる部分
りゅうこつ座Carina同じくアルゴ座の一部。船首部分にあたり、最も明るい恒星カノープスを含む
らしんばん座Pyxis船の羅針盤を表す。こちらも後世に追加された近代星座
ほうおう座Phoenix古代エジプトや中東の不死鳥伝説に基づく近代星座
うみへび座Hydra最大の星座。ヘラクレスが倒した多頭の水蛇ヒュドラに由来。神話性が強く、周囲にはカラス座・コップ座など関連星座も配置されている
その他(神話・海洋に関する星座)
名称name説明
エリダヌス座Eridanus伝説の大河を表す星座。太陽の馬車を暴走させたパエトンが墜落した神話の舞台。夜空に長く蛇行する川のような星の並びが特徴。
わし座Aquilaゼウスの使いであり、雷を運ぶ聖なる鳥。美少年ガニメデをさらったのもこの鷲とされる。夏の大三角を構成する星アルタイルを含む。
こうま座Equuleusペガススの弟ともいわれる小さな馬の星座。特に目立つ神話はないが、星座としては古くから知られていた。空で2番目に小さい星座
とかげ座Lacerta17世紀に追加された近代星座
おわりに

私たちは、空を見上げるとき、何を感じるのでしょうか。遥か昔、神々の時代を想像した人々は、星空に物語を見出し、石にその思いを刻みました。

「ファルネーゼのアトラス」は、その想像と知恵、そして人類の“問いかけ”そのものを背負っています。神話、芸術、天文学。それらが一体となって語りかけてくるこの彫刻を、私たちは今、万博という未来を語る場で目の当たりにしようとしています。この像の前に立ったとき、きっとあなたも思うでしょう。

「自分は今、どんな空を背負って生きているのか」と。どうか、古代の空の重みを、ほんの少しでも感じてみてください。そして、そこから見えてくる未来のかたちに、耳を澄ませてみてください。

コメント

  1. […] さらに読む ⇒出典/画像元: https://lachiart.com/2025/04/18/farnese-atlas/ […]

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  3. 中はかけていませんよ!

    • ご返信いただきありがとうございます。YouTubeのほうでも気になっていました。彫刻でも裸体だと規制がかかってしまうのでしょうか?

      • 引っかかったことがあったので、最近ではサムネイルには注意しています

  4. なぜ芸術作品にモザイクをかけているのですか?

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