モダニズムの理想が問われた日
1972年、アメリカのミズーリ州セントルイスで、大規模な公営住宅「プルーイット・アイゴー」の爆破解体が始まった。設計を手がけたのは、のちに世界貿易センタービルを設計する建築家ミノル・ヤマサキである。高層棟を並べ、衛生的で合理的な住環境を多くの人々に供給するという、モダニズム建築の理想を体現した集合住宅であった。しかし入居後は荒廃と犯罪が深刻化し、最終的には行政の手で取り壊された。
建築評論家チャールズ・ジェンクスは、著書『ポスト・モダニズムの建築言語』(1977年)のなかで、この解体をモダン建築が象徴的に終わった瞬間として位置づけた。ポストモダンとは、20世紀前半に確立した機能主義のデザイン思想に対し、1960年代末から1980年代にかけて世界各地で起こった多様な批判・反動の総称である。ここでは建築・プロダクト・日本の動向、そして環境倫理からの問いという四つの側面から整理する。
モダニズムの理念と限界

モダニズムのデザインは、装飾を排し、機能と合理性を追求する立場をとった。建築家ミース・ファン・デル・ローエの言葉「Less is more(より少ないことは、より豊かである)」は、その理念を端的に示している。1958年に完成した《シーグラムビル》は、鉄とガラスによる均質な直方体として、この思想を体現した代表例である。
こうした機能主義は、建築家ル・コルビュジエの「住むための機械」という住宅観にも通じる。合理的で機能的な形態が生活を改善するという前提に立つものであった。一方で、地域の文化や歴史、装飾がもつ意味、住まいへの愛着といった要素は考慮の外に置かれやすかった。プルーイット・アイゴーの失敗は、均質な空間を大量に供給する手法が、無個性や疎外を生みうることを示す事例として論じられる。この反省から、デザインに「意味」を回復させようとする動きが生まれた。
ポストモダン建築 — 意味と歴史の回復

批判を最初に理論化したのは建築の分野であった。建築家ロバート・ヴェンチューリは、著書『建築の多様性と対立性』(1966年)で、建築は単純で純粋である必要はなく、複雑さや矛盾を含んでよいと主張した。ミースの標語をもじった「Less is a bore(より少ないことは、退屈である)」は、その立場を示す言葉として知られる。
ヴェンチューリが1964年に設計した《母の家》は、三角の切妻屋根を正面に強調し、「家」という記号的な形を意図的に用いた住宅である。機能から導いた形ではなく、人々が家に対して抱くイメージそのものを設計の主題とした点に特徴がある。さらにヴェンチューリらは『ラスベガスから学ぶ』(1972年)で、商業的な看板建築を研究対象とし、大衆的な装飾や記号を建築の正当な要素として位置づけた。
ポストモダン建築を広く知らしめた記念碑的な建物が、フィリップ・ジョンソンとジョン・バーギーによる《AT&Tビル》(1984年、ニューヨーク)である。頂部には18世紀の家具様式であるチッペンデール様式に由来する装飾が置かれ、歴史的モチーフの引用が明確に示された。建築家チャールズ・ムーアが設計した《ピアッツァ・ディタリア》(1978年、ニューオーリンズ)も、古代ローマの神殿建築を、ステンレスやネオンといった現代的な素材で再構成し、歴史様式を軽やかに引用した作例である。
メンフィス — 機能から意味・遊びへ

建築で始まった動きは、家具や日用品のデザインにも波及した。その中心となったのが、1980年末にイタリア・ミラノで結成されたデザイナー集団「メンフィス」である。背景には、1960年代末のイタリアで機能主義を体制の美学として批判した「ラディカルデザイン」の潮流があった。
メンフィスを主導したのは、タイプライター《ヴァレンタイン》(1969年)などで知られる著名なデザイナー、エットレ・ソットサスである。1981年にミラノで開かれた最初の展覧会で発表された《カールトン》は、書棚として分類されながら、斜めに突き出た棚板と原色を用い、機能よりも視覚的な効果を優先した作品であった。素材には、当時は安価とされたプラスチックラミネートが主役として用いられた。
同時期には、金属製品メーカーのアレッシィが著名な建築家・デザイナーに日用品の設計を委嘱し、量産品に物語性や遊びを与える試みを進めた。アレッサンドロ・メンディーニによる《プルースト・チェア》(1978年)は、古典様式の椅子に点描的な彩色を施した作例として知られる。メンフィスは1987年に活動を終えたが、1980年代の視覚文化に大きな影響を残した。
日本のポストモダン — バブル期の実験

日本では、1980年代後半のバブル経済を背景に、実験的なデザインが数多く実現した。潤沢な資金が、採算を度外視した建築やプロダクトを可能にしたためである。
デザイナーの倉俣史朗は、メンフィスにも参加した人物である。代表作《ミス・ブランチ》(1988年)は、透明なアクリルの内部に造花のバラを封入した椅子で、機能を超えて詩的な表現を追求した。建築家の磯崎新が設計した《つくばセンタービル》(1983年)は、ミケランジェロが手がけたローマの広場など西洋建築の要素を引用し、都市の中心を意図的に空虚な空間として構成した点で注目される。
建築家の隈研吾が設計した《M2ビル》(1991年、東京)は、古代ギリシャのイオニア式の柱を建物中央に巨大な形で配置し、歴史様式の引用を極端に誇張したバブル期を象徴する建築である。なお隈は、バブル経済の崩壊後にこの作風を転換し、木材や地域性を重視する方向へと向かった。日本のポストモダンには表現の自由を広げた側面がある一方、経済状況に依存した過剰な作例は「時代の徒花」と評されることもある。
環境と倫理からの問い
ポストモダンの動きと並行して、大量生産・大量消費そのものを問い直す議論が起こった。デザイナーで教育者のヴィクター・パパネックは、著書『生きのびるためのデザイン』(1971年)の冒頭で、工業デザインを社会的に有害な職業と位置づけ、計画的陳腐化や不要な流行品、安全を軽視した製品を批判した。パパネックは、富裕層の欲望ではなく人々の「本当の必要」に応えるべきだと論じ、障害者・高齢者・途上国の人々など、それまで顧みられにくかった対象を重視した。空き缶などで作る安価なラジオは、その実践例として知られる。
この時期には、環境や資源の有限性への意識も高まった。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』(1962年)は農薬による環境汚染に警鐘を鳴らし、ローマクラブの報告書『成長の限界』(1972年)は、経済成長の持続可能性に疑問を投げかけた。パパネックの思想は、今日のエコデザインやユニバーサルデザイン、持続可能性をめぐる議論の源流の一つに位置づけられる。
ポストモダンとは何だったのか
哲学者ジャン=フランソワ・リオタールは、『ポスト・モダンの条件』(1979年)で、社会全体が共有する単一の進歩の物語を「大きな物語」と呼び、その信頼が失われた状態をポストモダンと定義した。モダニズムが前提とした「合理性を追求すれば社会は必ず良くなる」という物語に代わり、多様な価値観が並び立つ状況が生まれたとする見方である。
ポストモダンには、機能主義の一元的な価値観を相対化し、多様性・意味・倫理をデザインに回復させた功績がある。一方で、表面的な引用や資源の浪費を招いたという批判もある。装飾や遊びを許容する現代のプロダクトやインターフェース、ユニバーサルデザインやサステナビリティの理念など、この時代に生まれた考え方は今日のデザインにも受け継がれている。
まとめ
ポストモダンデザインは、1972年のプルーイット・アイゴー解体に象徴される機能主義への疑問から始まり、建築・プロダクト・日本のバブル期の実験、そして環境倫理からの問いという複数の方向へ展開した。その核心は、単一の「正しいデザイン」という前提が崩れ、多様な価値観が共存する状況が生まれた点にある。デザインの評価基準が時代とともに変化することを示す事例として、現代を理解するうえでも重要な時期である。
