12/戦後の国際デザイン運動


1945年、第二次世界大戦が終わりました。前回見たように、戦時中のデザインは、モダンデザインも民藝も国家へと合流し、戦争宣伝の道具として総動員されていました。しかし敗戦や終戦によって、その力の「使い道」が再び問われることになります。戦後のデザインが出した答えは、「社会のため」でした。良いデザインは人々の暮らしを良くし、社会を良くする――この確信が、アメリカ・ヨーロッパ・日本という三つの舞台で、それぞれ異なる形をとりながら、国境を越えた運動として広がっていきます。本稿では、1945年から1960年代までの「戦後の国際デザイン運動」を、三つの舞台をめぐりながら整理します。

アメリカ ― 豊かさの爆発とミッドセンチュリーモダン

Cadillac Eldorado (1959)

本土がほぼ無傷のまま戦勝国となったアメリカでは、史上最強の消費社会が出現しました。復員兵支援法(GI法)による住宅取得の後押し、郊外への建売住宅の大量供給、ベビーブーム、そしてテレビ広告。この分厚い豊かさを背景に、1950年代半ばから60年代前半のアメリカには、パステルカラーの家電やクロームに輝く大型車があふれます。批評家トーマス・ハインは後年(1986年)、この大衆的豪華さの文化をポピュラックス(popular+luxury の造語)と名づけました。1959年型キャデラックの巨大なテールフィンや、宇宙時代のイメージを店舗の形にしたグーギー建築(1953年開店の現存最古のマクドナルド・ダウニー店が有名です)は、その象徴といえます。

一方で、同じ市場から理念派も花開きました。チャールズ&レイ・イームズ夫妻は、戦時中に海軍向けの成形合板の添え木(レッグスプリント)を量産した技術を椅子に転用し、LCW(1945)、FRP製シェルチェア(1950)、ラウンジチェア(1956)を生み出します。「最良のものを、最も多くの人々へ、最も少ない費用で」というイームズの信条は、バウハウスが掲げた理念のアメリカ的な実現形でした。また1962年には、アンディ・ウォーホルがキャンベルスープ缶を描き、自らの工房を「ファクトリー(工場)」と名乗ります。量産品が美術の主題となり、近代に分岐した美術とデザインの二本の線が、戦後になって初めて交差したのです。こうした1945〜70年代の欧米のデザイン動向は、後年(1984年)まとめてミッドセンチュリーモダンと呼ばれるようになります。

ヨーロッパ ― 理念の再建:ウルム造形大学とブラウン

焼け跡のヨーロッパ、特にナチスを生んだドイツでは、デザイン教育の再建は民主主義の再建と結びついた切実な課題でした。その象徴が、1953年に西ドイツに開校したウルム造形大学です。創設者の一人インゲ・ショルは、反ナチ抵抗運動「白バラ」に参加して1943年に処刑されたハンスとゾフィー・ショル兄妹の姉であり、学校は「二度と繰り返さないための教育」を魂としていました。初代学長にはバウハウス出身のマックス・ビルが就任し、カリキュラムには数学・社会学・経済学・記号論が導入されます。感性の天才ではなく、方法を持った専門家を育てる。この姿勢は、1968年の閉校後も世界中のデザイン教育の雛形となりました。

ウルムの理念を商品として実現したのが家電メーカーのブラウン社です。ウルム教授のハンス・グゲロットと、当時26歳のディーター・ラムスが手がけたレコードプレーヤーSK4(1956)は、白い鋼板と透明アクリルの蓋による誠実な造形から「白雪姫の棺」と呼ばれ、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久コレクションに収蔵されました。ラムスの哲学「Weniger, aber besser(より少なく、しかし、より良く)」は、後年「良いデザインの10か条」に結実し、アップルをはじめ現代のプロダクトデザインの源流となっています。

北欧・スイス・イタリア ― 暮らし・書体・企業

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デンマークやフィンランドなど北欧の小国では、福祉国家の思想のもと「美しい日常を、特権ではなく権利に」という方向が育ちました。ハンス・ウェグナーのYチェア(1950)は職人の知恵を量産ラインに乗せた名作であり、アルネ・ヤコブセンはSASロイヤルホテル(1958)で建築から家具・カトラリーまでを総合設計し、エッグチェアを生みました。手仕事と量産を対立させず和解させた点で、北欧デザインは日本の民藝と響き合いながら、それとは別の道を切り開いたといえます。1954年から57年には「スカンジナビアデザイン」展が全米を巡回し、世界的な流行となりました。

グラフィックの分野では、1950年代のスイスで国際タイポグラフィ様式(スイス・スタイル)が確立します。紙面を格子で設計するグリッドシステム、サンセリフ書体、写真の客観的な使用。その最大のスターが、1957年にハース活字鋳造所で生まれた書体ヘルベチカ(原名ノイエ・ハース・グロテスク、1960年改名)です。ラテン語で「スイスの」を意味するこの書体は、クセのない中立性ゆえに世界中の企業ロゴや交通サインの標準となりました。またイタリアでは、タイプライターのオリベッティ社が「工場は文化と美の担い手である」という理念を実践し、1954年には国家的デザイン賞コンパッソ・ドーロが創設されます。学校・企業・書体・賞――理念は個人の天才ではなく制度に乗って、国境を越えていったのです。

日本 ― 模倣の汚名から、信頼のデザインへ

敗戦国日本の出発点は過酷でした。輸出で外貨を稼がなければ復興できない一方、国際市場での評判は「安かろう悪かろう」。1949年にはイギリスから輸出織物のデザイン盗用への抗議がGHQを通じて寄せられ、外交問題に発展します。この危機に対し日本は、取り締まりではなく「独創を褒めて育てる」方向へ舵を切りました。1957年、通商産業省が創設したグッドデザイン商品選定制度、いわゆるGマークです。アメリカでMoMAが担った「良いデザイン」の啓蒙が、日本では国の制度として実装され、現在まで続く世界有数の長寿デザイン制度となりました。

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現場のプロダクトも実力で汚名を返上していきます。シャツのポケットに入る世界最小のトランジスタラジオ、ソニーTR-63(1957)。世界で最も売れたバイクの原点、ホンダ・スーパーカブC100(1958)。そして民藝運動の父・柳宗悦の息子である柳宗理は、イームズらが開拓した成形合板の技術に日本の造形感覚を重ねたバタフライスツール(1954)で、ミラノ・トリエンナーレ金賞(1957)を受賞しました。前回見た「量産のモダンと手仕事の民藝」という二つの道は、親子二代をかけて、一脚の椅子の上で一本につながったのです。

東京オリンピック1964 ― 国際デビューの完成

1960年、東京で世界デザイン会議が開かれ、世界各国のデザイナー・建築家が初めて日本に集結しました。この会議に合わせて菊竹清訓・黒川紀章ら若手建築家が発表した「メタボリズム」は、日本発の建築運動が世界へ発信された最初の例となります。そして1964年の東京オリンピック。勝見勝の指揮のもと、亀倉雄策のシンボルマーク(1960年発表、指名コンペで満場一致の採択)、写真を大胆に使った連作ポスター、そして山下芳郎らによる競技・施設のピクトグラムまで、国家イベントの全体が一つの体系としてデザインされました。国際的な大行事でピクトグラムを全面採用したのは東京五輪が世界初であり、デザイナーたちは完成後にその著作権を放棄して社会に開放しています。

ここで思い出したいのは、亀倉雄策が戦中の対外宣伝誌『NIPPON』で腕を磨いた人物だということです。前回の授業で見た、国家宣伝に動員されたデザイナーたちの技術と組織力は、20年後、平和の祭典のために開花しました。力そのものに善悪はなく、使い道を決めるのは時代と人である――戦中から戦後へ続く物語は、ここで一つの答えにたどり着きます。焼け跡からわずか20年、日本は「信頼のデザイン」を勝ち取り、デザイン先進国の仲間入りを果たしました。

結び ― 「良いデザインは社会を良くする」という楽観

アメリカは欲望のデザイン、ヨーロッパは理念のデザイン、日本は信頼のデザイン。入り口はまるで違いますが、出口は同じでした。良いデザインを、特別な誰かではなく社会みんなのために。戦後、理念と量産と制度が初めて揃い、デザイナーも企業も国家も美術館も、同じ確信を共有したのです。デザインの歴史の中で、最も屈託なく前を向けた時代だったといえるかもしれません。しかし、良いデザインの世界標準化は、裏返せば巨大な均質化でもありました。どこの家にも同じ家具、どこの街にも同じサイン、そして大量生産の裏の大量のゴミ。「デザインは本当に社会を良くしているのか?」――1960年代末、この問いが世界中で爆発します。次回は、モダニズムへの反逆=ポストモダンの物語です。