10/明治大正時代のデザイン

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明治維新がおこした西洋文化の影響

近代日本のデザインは、どのようにして西洋文化と融合し、独自の発展を遂げたのか?前回は明治前まで、つまり西洋文化が育んできた「デザイン」の定義にふれる前の日本文化について追求してきました。今回は、明治から大正にかけての日本のデザインの変遷をたどりながら、その背景にある文化や思想、技術革新についてご紹介します。

明治維新は、政治や経済だけでなく、ものづくりのあり方も大きく変えました。それまでの日本に「デザイン」という概念は存在せず、職人の手による工芸が人々の暮らしを支えていました。しかし開国によって西洋の産業と文化が流入すると、日本は「図案(ずあん)」という新しい職能を、国家的な必要から生み出していきます。図案とは、明治から昭和にかけて用いられた「デザイン」の呼称であり、量産や産業のために形を計画する仕事を指します。本稿では、明治から大正にかけて日本に近代的なデザインがどのように成立したのかを、経済・教育・文化という三つの側面から整理します。

開国と殖産興業 ― 輸出のための「意匠」

1853年の黒船来航、そして1868年の明治維新を経て、日本は「富国強兵」「殖産興業」を国家目標に掲げ、急速な西洋化を進めました殖産興業とは、政府が主導して近代産業を育成する政策を指します。近代化には多額の外貨が必要であり、その獲得のために輸出が重視されました。当時の主要な輸出品は生糸・茶・工芸品であり、西洋市場で工芸品を販売するには、西洋人の嗜好に合致した意匠(デザイン)が求められました。すなわち日本のデザインは、芸術としてではなく、経済政策の一環として出発したのです。

その重要な舞台が万国博覧会でした。1867年のパリ万国博覧会には幕府・薩摩藩・佐賀藩が出品し、日本の美術工芸が注目を集めました。続く1873年のウィーン万国博覧会は、明治政府として初の公式参加となり、政府は職人や調査団を派遣して西洋の産業と意匠を学ばせました。なお、現在用いられる「美術」という語も、この時期に西洋の概念を翻訳する過程で生まれた近代語ですが、その詳細は美術史の領域に属するため、ここでは立ち入りません。

真葛焼《 褐釉蟹貼付台付鉢》https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/G-105?locale=ja

万博での評価は、ジャポニスムと呼ばれる日本趣味の流行を後押ししました。ジャポニスムとは、19世紀後半に欧米で広まった日本美術への関心と、その影響を指します。眞葛焼(宮川香山)や薩摩焼の金襴手など、精緻な技巧を凝らした輸出工芸が海を渡り、外貨獲得という国策に合致しました。その一方で、「技術は高いが、意匠を構想する力が弱い」という課題も明らかになり、これが次の図案教育の必要性へとつながっていきます。

「図案」の誕生 ― デザイン教育の制度化

工部大学校(1880年)工部美術学校は工部大学校付属校 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E9%83%A8%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1

意匠の弱さという課題に対し、日本は「デザインは教育によって育てる」という方針をとります。その出発点が、1876年に工部省が設立した工部美術学校でした。これは日本初の官立美術学校であり、イタリアからフォンタネージ(絵画)やラグーザ(彫刻)を招き、西洋の技術を直接導入しました。ただし1880年代に入ると、フェノロサや岡倉天心らによる日本美術復興(国粋主義)の高まりを背景に、同校は1883年に廃校となります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A7%E5%88%B6)

その後、1887年に東京美術学校(現在の東京藝術大学の前身)が設立され、1896年には同校に図案科が新設されました。ここで「図案=デザイン」が、学校教育の正式な科目として位置づけられます。図案科は、建築・工芸・印刷など産業に応用される設計を教える場であり、デザイナーを制度的に養成する体制の起点となりました。

この図案教育を支えたのが、二人の先駆者です。平山瑛造は、ウィーンの工芸学校(Kunstgewerbeschule)に留学し、応用美術(Kunstgewerbe)の考え方を日本に導入しました。松岡壽は、ローマ留学で純粋美術を学んだのち工業図案の教育に転じ、「日用のすべての工業製品を美しくする」という理念を掲げました。これは後のインダストリアルデザインの理念に通じるものです。こうした個人の実践は、1921年の東京高等工芸学校の設立によって制度として結実します。同校は「芸術と技術の統一」を理念に掲げ、図案・工芸・デザインの総合的な教育機関となりました。

日本のアール・ヌーヴォー ― 図案家とグラフィックの発展

明治後期には、出版の拡大とともにグラフィックの領域で図案が発展しました。雑誌や詩集、書籍の表紙・挿絵・誌面構成が、図案家の活躍の場となります。この時期に影響を与えたのがアール・ヌーヴォーです。アール・ヌーヴォーとは、19世紀末から20世紀初頭にかけて欧州で流行した、植物の曲線や有機的な装飾を特徴とする美術・工芸の様式で、その源泉の一つにはジャポニスムがありました。日本美術に学んだ様式が、新たな形で日本へ還流したことになります。

その代表例が、1901年に刊行された与謝野晶子の歌集『みだれ髪』です。表紙の装幀は藤島武二が手がけ、アール・ヌーヴォー風の曲線によって象徴的な図像が構成されました。奥付には装幀が藤島によるものである旨が記されており、書物の内容と造本意匠が一体となった、近代的なブックデザインの先駆と位置づけられます。

商業の領域では、杉浦非水が三越呉服店の宣伝物やポスターを数多く手がけ、企業の図案を担う専門職としての商業デザイナーの先駆けとなりました。また神坂雪佳は、江戸時代の琳派の伝統を踏まえつつ、アール・ヌーヴォーの感覚を取り入れた図案を展開しました。これらの表現は、石版印刷(リトグラフ)やオフセット印刷といった印刷技術の普及によって支えられ、社会へ広く流通していきました。

大正のデザイン ― 都市・大衆・消費

日本橋、左に帝国製麻、奥に三越呉服店(大正11年絵葉書)

大正期(1912〜1926)に入ると、デザインの担い手と受け手は大きく変化します。大正デモクラシーと呼ばれる自由主義的な風潮のもと、都市化が進み、サラリーマンや職業婦人といった新しい都市生活者=「大衆」が登場しました。デザインの目的は、国家の輸出政策から、個人が楽しむ消費へと移っていきます。

この時代を象徴するのが竹久夢二です。夢二は叙情的な女性像で知られる画家であると同時に、千代紙・封筒・絵はがき・楽譜の表紙など、生活に密着した図案を数多く手がけました。1914年(大正3)には東京・日本橋に「港屋絵草紙店」を開き、自らがデザインした品々を販売しました(1916年閉店)。これは、制作から販売までを一貫して手がけた先駆的な試みとして知られます。なお「大正ロマン」の「ロマン」は、恋愛的な意味ではなく、個人の感情や感性を重んじる浪漫主義(ロマンティシズム)に由来する語です。

消費文化の中心となったのが百貨店でした。三越や、のちの伊勢丹などは、PR誌・ポスター・ショーウィンドウを通じて新しい生活様式を提案し、商業デザインの主要な舞台となりました。さらに、引札(チラシ)・ポスター・パッケージ・広告など、商業デザインは日常の隅々へと広がり、雑誌やグラフ誌といった複製メディアの普及が、それを全国へと伝えました。

近代生活と「美術とデザインの分岐」

1923年の関東大震災は、東京・横浜に甚大な被害をもたらしましたが、その復興の過程で鉄筋コンクリート建築や近代的な都市計画が進み、近代的な生活様式が加速しました。

この時期には、「美術」と「デザイン」の関係も変化します。美術史家の佐藤道信によれば、明治期に西洋の基準で「非美術」とされた工芸が、1927年に帝展(帝国美術院展覧会)へ参入し、工業や生活と結びついた「デザイン」の登場が、一品制作を前提とする「美術」の境界を外側から揺さぶりました。すなわち、唯一性や作者の個性を重んじる「美術」と、量産によって多くの人に届く「デザイン」とが、しだいに性格を分けていったのです。

同じ頃、もう一つの潮流も芽生えていました。1925年、柳宗悦らは無名の職人による日常の手仕事に美を見いだし、「民藝(民衆的工芸)」という語を提唱しました。量産化が進む時代にあって、手仕事の価値を問い直すこの運動は、デザインのもう一つの方向性を示すものでした。こうして大正の終わりは、近代デザインが本格的に展開していくための出発点となりました。

結び ― 明治・大正が残したもの

明治・大正の約60年間は、日本に「デザイン」という職能と制度が定着していく過程でした。出発点は国家の経済政策であり、やがて教育制度を通じて専門職が育ち、大正には人々の生活と消費の中へと広がっていきました。グラフィックデザイン、商業デザイン、プロダクトデザインといった現代の諸分野の原型は、いずれもこの時代にさかのぼることができます。明治・大正のデザイン史をたどることは、現代のデザインがどのような歴史の上に成り立っているのかを理解する手がかりとなります。

参考文献

天海群則「明治期の日本デザイン教育の先駆者―美術から工業図案へ」(2016)/佐藤道信『美術のアイデンティティ』吉川弘文館/与謝野晶子『みだれ髪』(1901)

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