北斎《万物絵本大全》解説|消えた百科事典の謎

作品解説
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103枚のハガキ大の紙に、75歳の老画家は世界の全てを詰め込もうとした。神も、獣も、インドの民も、鬼も。しかし一枚も版木に彫られることなく、この計画は静かに消えた。葛飾北斎が天保年間に着手した《万物絵本大全》版下絵は、日本史上もっとも野心的な図鑑プロジェクトの「遺稿」である。版下絵はパリへ渡り、オークションにかかり、約70年間の失踪の後に再発見され、大英博物館が購入した。約190年を経て、この「消えた百科事典」は2026年夏にようやく日本に里帰りする。

白い手のひらに乗る大きさの紙を、係員が白手袋でガラスケースの中に並べている——そう想像してほしい。東京都美術館の展示室。ケース一つに10枚。紙の端はわずかに褐色に焦け、線は細くしかし迷いがない。神様が何かを書き留めたみたいだと思うのは、この紙を描いた人間が「神と隣人の両方を一枚の紙に収める」ことを本気で試みたからだ。

その人物の名は葛飾北斎。描いたとき、推定75歳前後。日本の画家が生涯のうちもっとも多作になるのはたいてい30代から40代だが、北斎はそのセオリーを丸ごと壊した男だった。70歳を超えてなお、毎日筆を持ち、自分を「画狂老人卍(がきょうろうじん まんじ)」と名乗った。ここに、世界で最初の「ビジュアル百科事典」を作ろうとしていた老人がいる。

1830年代の江戸は、静かな危機の中にあった。天保の大飢饉で農村から難民が流れ込み、幕府は引き締めを始めていた。しかし北斎の手は止まらなかった。版下絵——木版画に彫るための原画——を103枚、コツコツと描き溜めた。神仏、異国の民、猛獣、海の生き物、庶民の祭り。テーマは際限なく広がり、ちいさな紙の上に江戸の好奇心が渦巻いた。

「天保の北斎」は、鎖国の壁越しに世界を見ようとしていた。長崎・出島を経由したオランダ商人の絵地図、唐船が持ち込む中国の書物、そして北斎自身が半世紀かけて蓄積した観察の記憶。ちいさな版下絵の1枚1枚は、一人の老人が「描くことで理解しようとした宇宙の断片」だった。しかし版木は彫られなかった。なぜ、この百科事典プロジェクトは頓挫したのか。頓挫の後、版下絵はどんな旅をしたのか——その謎を、これから解き明かしていく。

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森羅万象を描いた北斎の下絵

万物絵本大全図  大英博物館 クリエイティブ・コモンズ 「大鵬の卵の中に雨宿りする」

《万物絵本大全》版下絵は、計103枚が現存する。すべて肉筆の線描画であり、後の版木彫刻を前提とした「指示書」の性格を持つ。個々の紙は通称「ハガキ大」と呼ばれる縦長短冊形の薄紙で、濃淡のある墨線と朱の指示文字(詞書)が混在している。

版下絵(はんしたえ)とは、木版画制作における最初の工程物である。絵師が墨で描いた紙を版木(桜材が多用された)に直接貼り付け、彫師が裏から彫り込む。すなわち版下絵は転写されると同時に紙が湿らされて破損・廃棄されるのが通例だった。今回の103枚が現存するのは、版画として出版されることなく放置されたためであり、逆説的に「出版の失敗」が保存の原因となった。

描かれた内容は多岐にわたる。大別すると、(1)神仏と宗教的人物(インド仏教・密教・道教の神々を含む)、(2)異国の民(東南アジア・インド・中国・西洋人の衣装と容貌)、(3)動物・神獣・妖怪、(4)江戸庶民の生活場面と年中行事、(5)植物・風景・自然事象の5カテゴリーに整理できる。一枚の紙に2〜4体の人物や生き物が並ぶ構成が多く、図鑑的な「解説図版」としての使用を前提とした配置だ。

大英博物館での整理・研究を主導したのは日本部門キュレーターのティモシー・クラーク(Timothy Clark)。クラークは2022年に刊行した書籍(朝日新聞出版)の中で、本作を「北斎が視覚的言語で構築しようとした森羅万象のカタログ」と位置づけ、神仏名に関する日本語・サンスクリット語の対照表を含む詳細な解説を付した。

1830年代の世界史的コンテキスト

天保期・1830年代の江戸の街並みを描いた浮世絵風のイメージ。霧のかかった木造の町屋と着物姿の人々
天保の飢饉と改革に揺れた1830年代の江戸。北斎はこの時代に《万物絵本大全》を描き溜めた(イメージ)。

北斎が本作の版下絵を制作したのは、おおむね1830年代——天保年間(1830-1844)と推定される。この時期の江戸と世界を同時に眺めると、一枚の絵が複数の圧力の交差点に位置していることが分かる。

天保の飢饉(1833-1839)と江戸社会の動揺

天保4年(1833年)から始まった大飢饉は、特に東北地方を中心に甚大な被害をもたらした。数十万人が死亡し、農村から都市への難民流入が激化した。江戸の町は物価高騰と食糧不安に揺れ、幕府の統治能力への不信が高まっていた。天保8年(1837年)には大坂東町奉行の元与力・大塩平八郎が私財を投げ打って蜂起するという前代未聞の事態も起きている。

北斎自身も貧困と縁が切れなかった。彼は生涯に93回以上引越しを繰り返したとされ、天保年間の晩年も質素な生活だった。しかしその手は止まらなかった。飢饉の時代に描かれた《万物絵本大全》版下絵の中には、豊かな食材や祭りの図が含まれており、現実の窮状と画面上の世界が鋭い対比をなす。

天保の改革(1841-1843)と出版統制

老中・水野忠邦が主導した天保の改革は、幕府財政の再建を目的とした大規模な引き締め政策だった。文化面では特に出版統制が厳しく、天保13年(1842年)6月に出版条令が発布された。役者絵・美人画・春画の禁止、人情本の禁止が相次ぎ、人情本の作者・為永春水が処罰されるなど、出版業者への直接的な弾圧も行われた。

本屋仲間(書物問屋仲間)は株仲間解散令(天保12年12月)により解散させられ、従来の自主的な検閲体制が崩壊した。代わりに昌平坂学問所と町奉行所が全出版物を事前審査する体制に移行した。この環境の変化が、《万物絵本大全》の出版断念に影響した可能性は十分にある。「異国の民」や「神仏図」を含む百科事典的な図鑑は、幕府の検閲官にとって問題視されかねない内容を含んでいた。

アヘン戦争(1840-1842)が日本に与えた衝撃

天保11年(1840年)に勃発したアヘン戦争は、清国がイギリス海軍に完敗したという衝撃的なニュースとして幕末の日本に伝わった。清国の脆弱な敗北は、「西洋の軍事力」という現実を日本の知識人・武士階級に初めて直視させた。この「夷狄の脅威」への恐怖感は、幕府の対外姿勢を硬化させ、国内での情報統制強化にも影響した。

北斎の《万物絵本大全》が描く「異国の人々」は、まさにこうした時代のリアルな情報欲求を体現している。インド・東南アジア・中国の民族衣装と顔貌を克明に描き分けた図版は、当時の日本人にとって「外国」を視覚的に把握するための貴重な情報源だった。

北斎の生涯における特異点

83歳の葛飾北斎による自画像の素描
83歳の北斎による自画像。「画狂老人卍」と号し、晩年まで筆を止めなかった。Katsushika Hokusai / Public domain, via Wikimedia Commons

葛飾北斎は宝暦10年(1760年)に現在の東京・墨田区あたりで生まれた。浮世絵師・勝川春章に入門したのが安永8年(1779年)、19歳のときである。以来、70年近くにわたって筆を持ち続け、北斎漫画(全17冊)をはじめ、3万点以上の作品を残したとされる。

「画狂老人卍」の時代に何が起きていたか

北斎が自ら「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」と名乗り始めたのは70代に入ってからだ。この号は禅宗の「卍」字に込められた無限循環の意匠であり、「私はまだ成長途上にある」という強い宣言だった。富嶽三十六景(文政13年=1830年頃起稿)が世に出たのも、まさにこの「画狂老人」期だった。

《万物絵本大全》版下絵の制作は、この《富嶽三十六景》と時期的に重なる。北斎は同時に複数の巨大プロジェクトを抱えながら版下絵を描き続けていた。単独の画家個人が、世界百科事典と日本一の山の多視点図鑑を並行して進めていた——これは一つの想像力の爆発であり、北斎の晩年における知的エネルギーの絶頂期を示している。

北斎漫画との比較

《万物絵本大全》を理解する上で、《北斎漫画》との比較は不可欠だ。北斎漫画は文化11年(1814年)に第1冊が刊行され、生前15冊、没後2冊の計17冊が出版された。内容は人物・動物・植物・建物・地形など万象を素描した「絵手本」であり、後のヨーロッパでは「MANGA」の語源となったほどの影響力を持った。

《万物絵本大全》が《北斎漫画》と異なるのは、「系統的な分類」の意図が明確な点だ。漫画が気ままな観察スケッチの集積であるのに対し、万物絵本大全は神仏・異国・動物・風俗という明確なカテゴリー分類を持ち、各図に詞書(ことばがき)と呼ばれるテキスト説明が付随する。テキストと図版が一体となった「知識のデータベース」として設計された痕跡だ。

娘・お栄(葛飾応為)の存在

この時期の北斎の制作を支えたのが、娘のお栄(葛飾応為、生没年不詳)の存在だ。お栄は父北斎とともに暮らしながら自身も優れた画家として活動し、父の下絵を仕上げる補助作業を担ったとされる。《吉原格子先の図》(すみだ北斎美術館所蔵)など現存する作品は、北斎に匹敵するほどの光の表現力を示す。《万物絵本大全》版下絵の一部にも彼女の筆が入っている可能性を、研究者は指摘している。

版下絵はなぜ版木を彫られなかったのか

最大の謎は「頓挫」の理由だ。学術的に確定した記録は存在せず、以下は複数の仮説として整理する。

仮説1:天保の改革による出版統制

最も有力な説は、天保13年(1842年)の出版条令が引き金になったというものだ。「神仏の図版」「異国人の図版」を含む百科事典的図鑑は、幕府の出版検閲において潜在的に問題視される内容を含んでいた。為永春水の処罰(天保13年)など、文化的表現への弾圧が激化する中で、版元が自主的に出版を取りやめた可能性が高い。

仮説2:北斎自身の体調または制作の優先順位

北斎は晩年、繰り返し体調を崩した記録がある。嘉永2年(1849年)に89歳で死去する直前まで筆を持ち続けたとされるが、版下絵の出版最終段階において他のプロジェクトを優先した可能性もある。

仮説3:経済的・商業的判断

103枚の版下絵をすべて彫り、多色刷りの完成品として販売するには相当の先行投資が必要だった。天保の飢饉以降の経済低迷の中で、版元が採算の見通しを立てられなかった可能性もある。

版下絵が生き延びた奇跡

いずれの仮説が正しいとしても、103枚が廃棄されずに残ったのは奇跡と呼ぶしかない。浮世絵の制作プロセスでは、版下絵は版木に転写された後に湿らされて剥がされ、通常は再利用不能な破片として廃棄される。本作が今日まで残っているのは、「版木に一度も貼られなかった」ことの証明でもある。

パリへの旅:アンリ・ヴェヴェール旧蔵

北斎の死後(1849年)、この103枚の版下絵は何らかのルートで日本を離れた。確実に記録されているのは、19世紀後半にパリの宝石商・美術収集家アンリ・ヴェヴェール(Henri Vever, 1854-1942)の手に渡ったことだ。ヴェヴェールはアール・ヌーヴォー様式の宝飾品デザインで名高い職人だったが、同時に当時のパリで最大規模の日本美術コレクターの一人でもあった。

ヴェヴェールはジャポニスム(1860年代以降にヨーロッパで高まった日本美術への熱狂)の波に乗り、北斎・広重・歌麿・写楽の版画を大量に購入した。彼の浮世絵コレクション約8,000点は1918年に日本の実業家・松方幸次郎が買い取り、現在は東京国立博物館に収蔵されている。ただし《万物絵本大全》版下絵はこの売却に含まれず、ヴェヴェールの没後(1942年)に遺産として残された。

70年間の失踪:1950年代のオークションから再発見まで

ヴェヴェールの死後、版下絵は相続人の手を経て、おそらく1950年代初頭のパリのオークションに出品されたと見られる。落札した購入者が誰だったかは長い間不明のままで、約70年の「失踪」——文書も来歴も追えない空白——があった。2019年頃にようやく再発見・再浮上し、大英博物館が即座に購入を決定した。

大英博物館の日本部門(同館の日本コレクションは約4万点)がこの版下絵を「北斎研究における最重要発見の一つ」と位置づけ、ティモシー・クラークを中心とした専門家チームが内容の全点解説・調査を行った。調査結果は2022年の書籍として朝日新聞出版から刊行され、立命館大学アート・リサーチセンター(ARC)のデータベースでもデジタル公開されている。

絵の内容と北斎の「万物」観

《万物絵本大全》を単なる絵手本として読むと、その本質を見誤る。ここには北斎の「世界モデル」が圧縮されている。

特筆すべきは「異国人」の図版の詳細さだ。インド人・タイ人・ジャワ人・中国各地の民族衣装を、あの明快な線質で描き分けている。これは17世紀以来の長崎・出島経由で流入した地誌書・世界図絵の図版を、北斎が独自に咀嚼・再解釈した成果だ。「鎖国下における世界認識」を視覚化した貴重な資料でもある。

また「神仏の図版」に関する詞書には、サンスクリット語の神名を日本語で音写した記述が残っており、北斎が「翻訳」という知的作業にも深く関与していたことが分かる。版下絵は単なる「絵」ではなく、テキストと図版が一体となった「情報設計物」だった。

現代デザイン・私たちへの示唆

約190年前の一人の老人が、103枚のハガキ大の紙に詰め込もうとした世界は、現代のウェブデザインの原理と驚くほど重なる。

北斎の《万物絵本大全》は、「視覚的な分類と検索可能な知識構造」を目指していた。テキスト(詞書)と図(版下絵)がセットで機能する設計は、今日のWikipediaの「アイコン+記事テキスト」の組み合わせと構造的に同一だ。英語では「インフォグラフィックス」と呼ばれるが、北斎はその概念を約150年先取りしていた。

「未完のプロジェクト」という点も現代に語りかける。テクノロジー企業は毎年、完成前にサービスをシャットダウンする。北斎の版下絵は「失敗作」ではなく「製品化されなかったβ版」だ。そのβ版には、完成品には決して残らない制作者の思考プロセス——迷い、修正、試行——が生々しく刻まれている。版木に彫られなかったからこそ、紙の上の北斎の手の動きが190年後まで鮮明に残った。

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