デザインは問題解決だけではない|AI時代に考える「意味のイノベーション」

デザイン
Waitress looking stressed while calculating bill at restaurant table
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デザインは、よく「問題解決」だと言われます。

たしかに、このアプローチはとても使いやすいものです。何が課題で、それに対してどのような解決策を提示するのか。そう整理すれば、複雑な状況も一気に見通しやすくなります。授業でも、企画書でも、プレゼンでも、この構造は強い説得力を持ちます。

けれど、問題解決型のアプローチには少し違和感を抱いていました。それを言語化していたのが、この動画です。

便利で、明快で、共有しやすい。だからこそ、その言葉に置き換えた瞬間、そこにあったはずの感情や生活の手触り、まだ言葉にならない違和感が、どこかへ押し出されてしまうことがある。世界は本来、もっと複雑で、もっと湿度を持っていて、ひとつの課題とひとつの解決策だけでは捉えきれないもののはずです。

同時に、ベルガンディの印象的な言葉も残りました。

もしあなたが人々に愛されるモノゴトを創造したいのであれば、問題解決からは離れたほうがよい。愛について考えるのだ

「愛」という捉え方はすぐに咀嚼できるものではありませんでした。デザイン論の中で聞くには、少し飛躍が大きい。けれどデザイナーを「意味の設計者」という観点で考えると、従来の問題解決だけでは届きにくい領域が少しずつ見えてきます。

この記事では、問題解決という整理が取りこぼしてしまうものを、アーツ&クラフツ運動、Wii、ALFALINK、そしてAI時代のデザイナー像を通して考えていきます。デザインは、単に課題を処理する技術なのか。それとも、生活の中に新しい意味を立ち上げ、人と社会の関係を少しずつ組み替えていく営みなのか。

その問いをたどることは、AI時代にデザイナーが何を失い、何をまだ持ち続けられるのかを考えることでもあります。

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問題解決という言葉は、なぜ乾いて聞こえたのか

「問題解決」という言葉は、デザインを説明するときに非常に便利です。何が問題で、それに対してどのような解決策を提示したのか。この構造で整理すれば、複雑な事象も一気に見通しやすくなります。とくに授業やプレゼンテーションの場では、問題提起と解決策という軸は、聞き手にとって理解しやすく、説明する側にとっても扱いやすい形式です。

私はかつて、アーツ&クラフツ運動を説明するときにも、この構造を使いました。産業革命によって粗悪な工業製品が広がり、労働や生活の質が損なわれていった。そこに対して、ウィリアム・モリスたちは手仕事や生活に根ざした美を取り戻そうとした。こう整理すれば、運動の輪郭はかなり明快になります。学生に向けて短時間で伝えるなら、問題と解決という構造はたしかに機能します。

けれど、そのわかりやすさの中に、どこか引っかかるものがありました。

アーツ&クラフツ運動を「粗悪な製品への反発」と「手仕事への回帰」として整理することは、間違いではないのだと思います。しかし、その言い方だけでは、モリスたちが見ていた世界の厚みが抜け落ち、深みが失われてしまう。彼らが問い直していたのは、単に製品の品質ではなく、働くこと、暮らすこと、美しいものに触れることが、人間にとってどのような意味を持つのかという、もっと広い問題だったはずです。

問題解決という切り口は、対象を整理する力を持っています。けれど、その整理の強さによって、かえって取りこぼされるものもある。感情、生活の手触り、時代への違和感、社会に対する倫理的な問い。そうしたものは、ひとつの問題とひとつの解決策に収めようとした瞬間、少しずつ平凡になってしまいます。

私は問題解決型のアプローチを使うと、うまく整理できたという手応えと同時に、どこかで「偽物を解説している」ような感覚でした。中立的で、説明としてはわかりやすい。けれど、モリスたちは本当にこんな単純な構造で時代を読んでいたのだろうか。もっと叙情的で、もっと社会的で、もっと生活の奥まで染み込んだものを見ていたのではないか。そう考えると、問題解決という言葉の乾きが、少しずつ気になり始めたのです。

「愛」は理論ではなく、違和感の入口だった

もしあなたが人々に愛されるモノゴトを創造したいのであれば、問題解決からは離れたほうがよい。愛について考えるのだ

この一文は、とても印象に残ります。けれど同時に、「愛」という言葉はかなり強い。デザインについて考えている中で急に「愛」と言われると、飛躍が大きく、すぐには咀嚼できません。問題解決から離れるべきだという主張にはうなずけても、では「愛について考える」とは具体的に何を意味するのか。そのままでは、少し抽象度が高すぎるようにも感じます。

ただ、この言葉を単純にロマンチックな表現として受け取るのではなく、問題解決という思考の限界を示すための入口として読むなら、見え方が変わってきます。問題解決は、すでに見えている課題に対して有効です。困っていること、不便なこと、改善すべきことを発見し、それに対してよりよい方法を提示する。これは重要な営みです。しかし、人が本当に心を動かされるものは、必ずしも既存の不便を解消したものだけではありません。

動画内では、「誰かに贈り物をするとき、相手が明確に欲しがっているものを渡すだけなら誰でもできる」と説明されていました。本当に印象に残る贈り物は、相手自身もまだ気づいていなかった欲望や、生活の中に眠っていた可能性を開くものかもしれません。

動画内では「愛」の手前に「意味」を置き論じていました。「愛」の重要性を説いたベルガンディ自身も別書『デザイン・ドリブン・イノベーション』の中では「愛」ではなく「意味」という言葉で説明しています。デザインを「モノに意味を与える」営みとして捉え、技術や市場の変化だけではなく、人々がその対象をどのように理解し、生活の中でどのような役割を見出すのかを重視しました*。つまり重要なのは、目の前の問題を解くことだけではなく、そのモノやサービスが人にとってどのような存在になるのかを問い直すことなのです。

Wiiに見る「意味のイノベーション」

意味のイノベーションを考えるうえで、Wiiの事例はわかりやすい補助線になります。

任天堂が2006年に発売したWiiは、ゲーム機の意味を大きく変えたプロダクトでした。従来のゲーム機が、どちらかといえばゲームに慣れた人が画面の中へ深く没入するための装置だったとすれば、Wiiはリモコン型のコントローラーを使い、家族がリビングで体を動かしながら一緒に遊べる場をつくりました。ベルガンディはこの変化を、単なる技術の急進的イノベーションではなく、ゲーム機が生活の中で持つ役割を変えた「意味の急進的イノベーション」として読み取っています*。

ここで重要なのは、Wiiが技術的に最先端だったから革新的だった、という話ではないことです。むしろWiiは、ゲーム機を「高性能な機械」として競わせるのではなく、「家族や場をつくる装置」として置き直しました。ゲーム機の意味が変わったことで、それまでゲームから距離があった人々も、同じ生活空間の中で参加できるようになったのです。

「デザイン・ドリブン・イノベーション」意味ベクトルに急進的変化が起こる領域

この事例は、問題解決とは少し違う方向を示しています。もし課題を「ゲーム機の性能を上げること」と設定すれば、解決策は処理速度や映像表現の向上になるかもしれません。しかしWiiが示したのは、ゲーム機が生活の中でどのような役割を持ちうるのかという、別の問いでした。そこでは、性能の向上ではなく、意味の置き換えが生活の変化を生んでいます。

世界はもっとウェットで、一枚岩ではない

問題解決という言葉に対する違和感は、結局のところ、世界の見方に関わっているのだと思います。

問題解決型の思考は、対象を明確にし、課題を整理し、解決策を提示します。その明快さはとても有効です。けれど、世界はいつもそのように整理できるわけではありません。人の生活には感情があり、歴史があり、習慣があり、まだ言葉になっていない不満や願いがあります。社会はもっとウェットで、表層で語れるほど一枚岩ではありません。

アーツ&クラフツ運動を考えるときも「産業革命によって粗悪な製品が増えたため、手仕事の価値を取り戻そうとした」と説明することはできます。しかし、それだけでは、モリスたちが抱えていたであろう生活へのまなざしや、労働への問い、美と社会を結びつけようとする切実さが薄れてしまいます。

当時の事象や彼らの思いを「問題解決」ではなく「意味を設計する」という観点で整理し直すなら、見えてくるものは少し変わったかもしれません。モリスたちは、単に粗悪な製品をよい製品に置き換えようとしたのではなく、工業化によって変質していく生活の中で、働くこと、つくること、美しいものに触れることが、人間にとってどのような意味を持つのかを問い直していた。つまり彼らの運動は、問題に対する処方箋というより、生活そのものの読み方を組み替えようとする実践だったのだと思います。

このように見ると、問題解決は古いから捨てるべきだ、という単純な話ではなくなります。問題解決は必要です。けれど、それだけでは足りない場面がある。問題を解く前に、そもそも何を問題と見なしているのか、その見方自体がどのような価値観に支えられているのかを考える必要があるのです。

「意味」は、そのための言葉です。愛という言葉ほど飛躍せず、問題解決という言葉ほど乾きすぎない。対象を生活や社会の文脈の中で捉え直すための言葉として、意味はちょうどその間にあります。だからこそ、AI時代のデザインを考えるときにも、意味という言葉は重要になります。大量の選択肢や出力が生まれる時代に、人間が何を見るのか。どの違和感を拾い、どの未来を選び取るのか。その判断は、世界を一枚岩としてではなく、多層的なものとして見ることから始まるのだと思います。

遠回りに見えるものが、視座をつくっている

AI時代のデザイナーに必要な力を、「意味を設計する力」と呼ぶことはできます。けれど、ここで「これからは意味を設計できる人だけが残る」と言い切ってしまうと、また別の単純化になってしまいます。問題解決型も視座の1つです。武器がそれ1つだけでは苦しいかもしれませんが、決して不必要というわけではありません。

ここで思い出したいのが、バウハウスの教育です。バウハウスは、すべての造形活動の最終目標を建築に置きながら、基礎造形、素材研究、工房での実習を重視しました。特に初期の段階ではデザインを単なる見た目の問題としてではなく、手、素材、形、空間、暮らしを結びつける総合的な営みとして考えていたのです。これは、AI時代のデザインを考えるうえでも大切な補助線になります。

授業カリキュラムと日本語訳

AIは、これから多くの制作を支えてくれるでしょう。画像を出し、文章を整え、資料をまとめ、案を広げてくれる。その速度は、人間の作業感覚を大きく変えていくはずです。けれど、何を美しいと感じるのか、どの違和感を見逃さないのか、どんな生活や関係性を未来に残したいのかという問いは、簡単に外部化できません。そこには、その人が見てきたもの、触れてきたもの、考えあぐねてきた時間が関わっています。

だから、AI時代のデザインを考えることは、過去の技能を否定することではありません。むしろ、これまで積み重ねてきた経験を、もう一度別の角度から見直すことなのだと思います。手を動かしてきた時間も、歴史を学んできた時間も、授業で言葉に詰まった経験も、すぐに答えへたどり着かなかった遠回りも、すべてが世界の見方を少しずつ育てています。

今していることを否定せず、そこから少しずつ世界への見方を育てていけば良いのです。遠回りに見える時間の中にこそ、人間らしいデザインの手がかりは残っています。そしてその手がかりを持ち寄ることで、私たちはAIと対立するのではなく、ともに新しい未来をつくっていけるのではないでしょうか。


参考文献・出典

  • ロベルト・ベルガンディ『デザイン・ドリブン・イノベーション』
  • ロベルト・ベルガンディ『突破するデザイン』

バウハウスに関する学習資料

本記事では、バウハウスにおける基礎造形、工房教育、建築を中心とした総合的なデザイン教育の考え方を参照しました。

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