前回のおさらい
感想
「バウハウス」や「ドイツ工作連盟」など近代デザインの起源に触れ、機械化・規格化と芸術表現の対立、教育理念の革新、そして現代への影響など多角的な視点を持って学んでいました。多くの学生が歴史的背景に初めて興味を持ち、自身のデザインに活かしたいと前向きに捉えています。
- 戦争による中断や「もし続いていたら」への思索・共感
- バウハウスの教育理念や授業内容への興味
- 規格化論争・産業と芸術の対立への関心
- デザイン史が現代の自分たちにどう繋がっているかの実感
- 教師や教科書のユニークさ・面白さ
質問など
- Q先生は体育祭きますか?
- A
ごめんなさい、仕事です
- Q標準化の「一定のルール」とは具体的にどんなもの?
- A
ネジの規格などです。
現在使われているネジの規格、ISO規格(国際規格)とJIS規格(日本の国家規格)のうち
ISO規格を設立したメンバーの1つがDIN(ドイツ工業規格)。DWBの後続にあたります
- Qドイツ工作連盟が設立されて以降、アーツ&クラフツ運動は衰退していったのでしょうか。
- A
徐々に影響力を失いました。衰退というより、意志の継承と捉えています。
- Qこのあと出てくるヒトラーも芸術家志望だったが、その時の芸術はどのような扱いだったのか?
- A
前衛芸術の多くは退廃芸術とされました
- Qバウハウスの自然学とは?
- A
イッテンやパウル・クレーが担当した授業です。「デザイン=人間と世界をつなぐもの」と考えていため、自然に存在する合理的で美しい構造や形態を学ぶことで、家具や建築の造形バランスに活かそうとしました。
- Qバウハウスに影響された日本人などはいないんですか?
- A
勝見勝、実際に留学しバウハウスを学んだ数少ない日本人です。オリンピックのグラフィックを担当しました。
- Q先生が学生時代に制作した作品、見てみたいです!
- A
Sufea Grass
「空気感を提案するプロダクトデザイン」というテーマで、真空の球体を含んだワイングラスを提案しました。中を真空にすると、外の景色が反転せずきれいにグラスに収まるので、ワインも夜景も、一瞬のきらめきも、全部飲み込んでしまおうという、提案でした。

アメリカ近代デザインのはじまり
「職人のいない国」で、デザインはどう育ったのか?
みなさんがこれまで学んできたデザイン史は、王侯貴族や職人文化が支えてきた“ヨーロッパ中心の物語”でした。
しかし今回から始まる3回のシリーズでは、そこから視点をガラリと変えてみましょう。舞台は、17世紀末から独立を果たし、広大な土地を開拓しながら急速に成長した“新しい国”、アメリカです。アメリカには、王も貴族もいない、職人の伝統も乏しい。それでもアメリカは、20世紀のインダストリアルデザインを通じて、世界をリードするデザイン大国になっていきます。
なぜ何もないところから、豊かなデザイン文化が生まれたのか?その鍵は、「産業の中から生まれたデザイン」「合理性とビジネスの結びつき」にあります。
第6回は、そのアメリカ近代デザインの出発点。西洋との違いを比較しながら、「文化」や「美」の基盤が異なる国で、どのようにデザインが育っていったのかを探っていきましょう。
アメリカ独立戦争と西部開拓

アメリカ合衆国が誕生したのは、わずか250年ほど前。その始まりは、イギリスからの独立をめぐる激しい戦い、「アメリカ独立戦争」(1775〜1783年)でした。
独立当初のアメリカは、現在のような広大な国家ではありませんでした。地図を見ると、最初の13州は東海岸に並ぶ細長い州だけ。西側の土地はほとんどが手付かずの“空白地帯”だったのです。

灰色は明確にアメリカ国外とされていた領土を示しています。スペイン領ルイジアナ、メキシコ(新スペイン)、ロシア領アラスカなど。これらの土地はアメリカではなく、別の列強の植民地でした。
東部〜中西部が既にアメリカ合衆国に属しており、州として編成されています。
テキサス(TX)はこの年にアメリカに編入されました(テキサス共和国から合衆国へ)。 ※これがきっかけで、翌年からメキシコとの戦争(米墨戦争, 1846-1848)が勃発します。

1884年は、西部開拓が終焉する時代にあたります。領土としては大きく広がりましたが、州としての機能や支配が完全には整っていない状態です。デザイン史・文化史の文脈では、「荒野から秩序へ」「未開の土地から近代国家へ」というアメリカ独特の進化の道筋を語る上で非常に有効な図です。
西洋との比較から見るアメリカの特異性
「職人文化」がない国からデザインはどう生まれたか?私たちはしばしば「デザインの歴史=ヨーロッパの話」として捉えがちです。実際、産業革命以降のヨーロッパでは、アーツ・アンド・クラフツ運動やバウハウスなど、芸術と産業をつなぐ数々のムーブメントが生まれました。
しかし、アメリカのデザイン史を辿ってみると、そこにはまったく異なる出発点と発展の道筋が見えてきます。
貴族文化と職人制度が育てたヨーロッパ

西洋のデザインは、中世以来の王侯貴族の生活文化と、都市に根づいた職人制度が支えてきました。たとえばイギリスやフランスでは、貴族の注文で家具や衣服、建築物が作られ、その中で職人たちは高度な技術と美意識を発展させていきました。
これが産業革命によって大量生産に置き換わりそうになったとき、「手仕事の価値を取り戻そう」とする反動がアーツ・アンド・クラフツ運動へとつながります。つまり、ヨーロッパのデザインは「伝統」と「産業」のあいだのせめぎ合いの中で育ってきたのです。
アメリカは「何もない」から始まった

一方、アメリカには王も貴族もいませんでした。中世のギルドも存在しません。そもそもこの国は、ヨーロッパからの移民が開拓地に集まり、未開の土地を“ゼロから開発”していくところから始まった国家です。
最初から「合理性」や「効率性」を優先せざるを得なかったアメリカでは、手仕事の伝統や美意識の洗練よりも、使えること、売れること、広がることが何よりも重視されました。
産業から生まれたアメリカのデザイン

アメリカで「デザイン」という考え方が力を持ち始めるのは、19世紀末から20世紀初頭にかけてのことです。このころになると、巨大な都市が成長し、大量生産が進み、商品や広告が社会を動かすようになっていきます。
そしてその中から、インダストリアルデザイン(工業デザイン)という新しい職能が誕生します。これはヨーロッパのように「工芸から分岐したアート」ではなく、ビジネスとテクノロジーの中から自然発生的に生まれたデザインでした。
万国博覧会と美術館の形成

―「展示する国」と「収集する国」―
19世紀から20世紀初頭にかけて、世界中の都市が文化と産業の発展をアピールする場として開催したのが、万国博覧会です。そして、その周辺で同時に発展したのが、美術館という制度でした。
これら二つの「展示と鑑賞の文化」は、国のあり方や価値観を象徴するものでした。とくに、ヨーロッパとアメリカでは、その形成のしかたに決定的な違いがありました。
万博の目的:
- 自国の技術力・文化水準を“国威発揚”として世界にアピール
- 植民地や地方の工芸品、建築、衣服、科学機器などを通じて“世界の縮図”を構成
- 産業の進歩と美術の融合を目指す場として、デザインや工業製品の登場機会でもあった
アメリカは、初期の万国博覧会には消極的でした。特に1925年のパリ万博(アール・デコ様式の爆発的拡大をもたらした回)には公式不参加。当時のアメリカにはまだ「国を挙げて見せる文化的象徴」が乏しかったためです。
しかしその一方で、アメリカは自国内で収集・保存・展示する文化=美術館の形成へと舵を切っていきます。
美術館から見るアメリカの文化形成

アメリカの最初期の美術館は、単に作品を鑑賞するだけの場ではなく、芸術教育や啓蒙活動の拠点としての性格が強く打ち出されていました。王侯貴族のコレクションから始まったヨーロッパの美術館とは、まったく異なるスタート地点だったと言えます。
19世紀末になると、実業家・金融資本家たちが美術品をあつめ、私財で美術館を建設するにいたりました。
| 創設年 | 美術館名 | 背景 |
|---|---|---|
| 1870年 | メトロポリタン美術館 | 実業家・銀行家・知識人たちによる寄付で創設 |
| 1870年 | ボストン美術館 | 知識人と資産家の野心「学術と公共の融合」として生まれる |
| 1879年 | シカゴ美術館 | アートスクール(美術大学)を併設する教育拠点 |
アメリカにおけるインダストリアルデザインの誕生
インダストリアルデザイン(Industrial Design)。直訳すれば「工業デザイン」ですが、その本質は単なる“ものづくりの設計”にとどまりません。そこには、アメリカという国の成り立ち、価値観、そして産業社会の論理が色濃く反映されています。
• 巨大で多様な市場
• 成長を続ける都市と中産階級
• 生産力と販売力を競う産業界
• デザインより先に「広告」が成熟していた文化
「どう売るか」「いかに大量生産するか」この問いが、アメリカにおけるデザインの出発点でした。
摩天楼 スカイスクレイパー(超高層ビル)―標高が高い=国力の高さ

アメリカにおけるインダストリアルデザインの象徴的な成果のひとつが、スカイスクレイパー(摩天楼)と呼ばれる高層建築です。その代表格が、1931年に完成したエンパイア・ステート・ビル。ニューヨークの空に突き刺さるように垂直にそびえるその姿は、当時の人々にとってまさに「近代の奇跡」でした。
このような建築物は、単に多くの人を収容するという実用目的だけでなく、国家の技術力や産業力を世界に誇示する象徴でもありました。
鉄骨構造やエレベーター技術の進化によって可能になったこの“垂直都市”は、「いかに高く、いかに効率よく、そしていかに大胆に空間を使うか」というアメリカ的な合理主義の体現でもあります。まさに「技術力=国力」という時代の精神を、形そのものに刻み込んだモニュメントだったのです。
流線型 ストリームライン―近代の美

もともとは空気抵抗を減らすために設計された形状で、列車や自動車、飛行機などの高速移動体において発展した技術でした。しかし1930年代になると、この「なめらかで未来的なフォルム」が“近代の美”の象徴として広く注目を集めるようになります。
実際、蒸気機関車の外装から掃除機や冷蔵庫、ラジオの筐体にいたるまで、あらゆる製品に流線型デザインが取り入れられていきました。それはスピードや機能性を感じさせるだけでなく、消費者の“未来への期待”を形にする手法でもあったのです。
「スピードこそ近代」「美しさとは効率的であること」──そうした価値観がプロダクトの造形そのものに宿っていた時代だったのです。
プラスチック製品が自由な形を誕生させる

プラスチック(合成樹脂)の登場によって、それまでの素材では不可能だった形や色、質感が一気に現実のものとなり、工業製品のデザインは飛躍的に進化しました。
1907年、アメリカの化学者レオ・ベークランドによって発明されたベークライト(Bakelite)は、世界初の人工合成樹脂(熱硬化性プラスチック)でした。その成形のしやすさから、一気にプラスチックの時代の幕開けとなったのです。
プラスチックは、流線型を含めた有機的な形、一体成型、軽量化、鮮やかな色彩を可能にしました。
広告とイラストの黄金時代
インダストリアルデザインの一方で、印刷物・ポスター・新聞・雑誌といったメディアが急成長。そこに載せる広告や挿絵には、単なる装飾ではなく、消費者の心を動かすビジュアル戦略が求められました。
マスメディアと呼ばれる広告産業の爆発的成長があり、1900年代から20年代にかけ、新聞や雑誌産業は急成長しました。ラジオが一般化する前、紙媒体が最大のメディアだったのです。本授業では、その時の代表的なイラストレーターやコピーライトの例をあげました。
ノーマン・ロックウェル(Norman Rockwell)

ノーマン・ロックウェル(Norman Rockwell)は、ニューヨーク生まれの画家・イラストレーターであり、20世紀アメリカを象徴するビジュアル表現者の一人です。彼の作品は、雑誌や広告の挿絵として広く知られました。
ロックウェルが得意としたのは、庶民の穏やかな日常をユーモアと温かみをもって描くこと。
少年のいたずら、家族の夕食、理髪店の風景…彼の筆にかかると、何気ない日常がどこかドラマチックに、そして美しく立ち上がります。活動後期になると、社会問題や人権への関心を強く反映した作品を発表するようになります。
J.C.ライエンデッカー(J.C. Leyendecker)

J.C.ライエンデッカー(Joseph Christian Leyendecker, 1874–1951)は、20世紀初頭のアメリカを代表するイラストレーターの一人であり、「広告美術を芸術の域に押し上げた存在」とも評されます。
ドイツ生まれでアメリカに移住し、パリのアカデミー・ジュリアンで学んだ後、ニューヨークを拠点に活動を展開しました。
コピーライター ジョン・ケープルスの例

―たった一行で人を動かす、広告の魔法―
インダストリアルデザインやイラストレーションが“視覚”の力で消費者を惹きつけていた1920〜30年代、その裏側で活躍していたのが、コピーライターたちです。なかでも最も伝説的な人物のひとりが、ジョン・ケープルス(John Caples)でした。このコピーは、1920年代に音楽学校(通信講座)の広告として使われたものです。新聞や雑誌の紙面に大きく掲載され、11.9倍という入学者増加を記録したと言われています
おわりに
ヨーロッパに職人と王侯貴族の伝統があったように、アメリカには“産業”と“消費”という現代的な土壌がありました。何もないところから国を築き上げたアメリカでは、「美しさ」よりもまず「機能性」と「売れること」が重視され、そこから自然とインダストリアルデザインが芽吹いていきました。
私たちが今、手に取るあらゆる製品――その形、その色、その見せ方。その多くが、この“職人なき国”で始まったデザインの系譜につながっているのです。