2025デザイン史第10回授業概要

前回のおさらい
感想


日本のデザインや美術が海外文化の影響を受けながらも独自の価値観を築いてきたことに関心を抱いており、日本らしい美意識や職人文化への理解と評価が深まっている様子が見受けられた。比較や歴史的背景を踏まえた視点が多く、思考の広がりが感じられた。

  • 日本と海外(西洋・中国など)の比較に注目
  • 日本の独自性(オリジナル化・職人文化)への関心
  • 仏像・工芸・刀など具体的なモノへの関心
  • 「美術」「デザイン」という言葉や概念の変遷への驚き
  • 授業内容や学びへのポジティブな反応・知的好奇心の増加 など
質問など
Q
写真を使ったコラージュデザインが好きなのですが写真を使ったデザインのおすすめの本はありますか?
A

The Age of Collage: Contemporary Collage in Modern Art(海外製/現代コラージュアート)
IMA(年2回発行/アートフォトマガジン)これならアマゾンや書店でも買えます

Q
スケジュール表をまた見たいです
A

第12回の授業はじめに小課題Cを行います。
課題は、第12回に課題内容を発表、13回に課題に関する質問に回答。夏休み明けの14回で提出〆切です。

明治維新がおこした西洋文化の影響

近代日本のデザインは、どのようにして西洋文化と融合し、独自の発展を遂げたのか?前回は明治前まで、つまり西洋文化が育んできた「デザイン」の定義にふれる前の日本文化について追求してきました。今回は、明治から大正にかけての日本のデザインの変遷をたどりながら、その背景にある文化や思想、技術革新についてご紹介します。

明治維新による日本美術の変化

1868年の明治維新を契機に、日本は急速な近代化の波にのまれていきました。きっかけは1853年の黒船来航による開国。その後、西洋文化が一気に流入し、「文明開化」の名のもとに、建築、服飾、教育など社会のあらゆる側面が変化していきます。前回の授業では日本デザイン史の概要をはなしたので、今回はその具体的な歴史の変遷を辿っていきたいとおもいます。

ウィーン万博がもたらした日本デザインの改良

日本が万博に初参加したとされているのは1867年のパリ万博です。しかしここでは江戸幕府(日本大君政府)薩摩藩(薩摩琉球国太守政府)佐賀藩(肥前大守政府)らがばらばらに出品等を行いました。さらに明治維新が起こったのはパリ万博の翌年にあたります。

明治政府が正式に参加したのは1873年ウィーン万博でした。ここでは近代国家である日本を世界にアピールするための策略がなされていたのです。日本の伝統工芸品は、海外でも十分勝負できると実感した反面、海外市場を意識したデザインが今後必要になってくると考え、意匠改良が行われました。

意匠改良とは、伝統的な技術を活かしつつ、見た目を時代に合わせて改良していく方針です。そこには海外市場を視野にいれており、また今後機械生産に変換していくことにも対応できるようにと取り組まれました。

今回例で上げた作品は、眞葛焼 高浮彫牡丹に眠猫覚醒蓋付水指と薩摩焼(金襴手)の西洋市場向け装飾陶磁器です。

どちらも茶道具ですが、茶道の定石から考えるとありえないほど豪華な装飾がなされています。この点から、海外の富裕層にむけたデザインがなされていることが理解できるでしょう。

図案科の必要性

日本近代美術としては、1887年の東京美術学校設立が大きな転換点となりました。これが建てられた意図やここで育った学生が後に日本美術を牽引することになります。

デザイン史の文脈でいうと、1896年に西洋画科(油絵科)と共に図案科が新設されたことで、国がデザインの必要性にかられていた点や今後活躍するデザイナーを大きく広げていったことを物語っています。

日本のアール・ヌーボー

アール・ヌーヴォーの影響を受けた日本人洋画家の一人が、藤島武二です。彼はもともと日本画を描いていましたが、西洋画の技法や表現に触れる中で、1891年には初の油絵作品を明治美術会第3回展覧会に出品し、明治美術会の森鴎外に最優秀と絶賛されるまでになりました。

藤島は1901年 詩集『みだれがみ』(与謝野晶子)の表紙デザインなども手がけており、日本のアールヌーボーの断片が発見できます。西洋的な曲線美や象徴的な女性像を日本的な感性と融合させた画風を確立しました。彼の作品には、日本人には見慣れなかった「写実的な顔立ち」や「ぐるぐるとカールした髪型」などが特徴的に描かれています。

また、一条成美石川寅治といった画家たちも、西洋の描法を日本的な主題に取り入れることで、新しい芸術表現を模索していきました。

大正ロマンとグラフィックの洗練

続く大正時代には、「大正ロマン」と呼ばれる文化潮流が生まれます。その代表的な人物が竹久夢二です。夢二の描く女性像は「夢二式美人」と呼ばれ、整った顔立ちに大きな瞳、ほっそりと長い手足が特徴的。彼の作品は、日本的な感性とヨーロッパ的なスタイルを融合させた、新しい時代の美の象徴でした。

大正ロマンのロマンはロマンチックではない

大正ロマンには日本伝統文化と西洋文化が入り混じったスタイルが内包されていますが。「ロマン」と言う言葉には自由主義・民主主義の意味が含まれています。大正デモクラシーを背景に、個人の精神を尊重し、自由に生きることを大切にする考えです。「ロマン」は西洋美術において「ロマンス語」を指していました。

ロマン主義という芸術主義が、新古典主義のアンチテーゼと登場したのが19世紀。

アール・デコ建築の登場と美術館の誕生

杉浦非水(すぎうらひすい)は、近代日本のグラフィックデザインの先駆者とも言える存在。アール・デコ風の装飾を取り入れたポスターなどを多数制作し、現代のビジュアルデザインの原点を築いた人物です。

アール・デコの様式は建築分野にも現れます。代表的なのが1933年に建てられた東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)。当初は皇族・朝香宮家の邸宅として建設され、1983年に美術館として開館しました。

その他、新宿伊勢丹本館や日本橋の三越本店にもアール・デコの要素が見られます。特にステンドグラスや柱の装飾などに注目すると、ヨーロッパ的な華やかさと日本的な感性の融合を感じることができます。

デザインを支えた技術革新と社会背景

2. 印刷技術の向上

江戸時代には木版画が主流でしたが、大正時代になるとリトグラフ(平版印刷)やオフセット印刷が普及。これにより、精密で多色刷りの印刷物が制作可能になり、商業デザインの幅が大きく広がりました。

まとめ

明治・大正期の日本のデザインは、単なる「西洋化」ではなく、海外からの影響を取り入れながら、日本独自の美意識と融合させて発展していきました。画家、建築家、グラフィックデザイナーたちが、それぞれの表現を模索しながら、日本の「近代デザイン」の礎を築いていったことがわかります。今後、現代のデザインを考える上でも、この時代のダイナミズムは多くの示唆を与えてくれるのではないでしょうか。

Sponsored Links
google.com, pub-6177307831535485, DIRECT, f08c47fec0942fa0